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みんなちがって、みんなだめ

  みんなちがって、みんなだめ-------金子みすゞの叫び

 まずお断りする。私は彼女を「みすゞさん」と、さんを付けて呼ばない。その理由は彼女が故人だからである。漱石であれ、鴎外であれ、あるいは姓で呼ばれることの多い芥川であれ、太宰であれ、故人の文学者は敬称を略されることが常なのに、彼女はさんづけで呼ばれることが一般的だ。
 その理由は、彼女を世に甦らせた児童文学者矢崎節夫氏の影響からだと思われる。しかし彼女をさんづけで呼ぶことは、一詩人である彼女への尊敬と親しみを表すより、むしろ彼女を特別視し、また神格化する危険性を有しているのではないか。「みすゞさん」と彼女を呼ぶことで、彼女の詩や人生を研究することをタブー視するような風潮を醸し出しているのではなかろうか。
 そう考え、この小論では彼女を「みすゞ」と呼ぶ。私のこの意見に賛同できない読者は、この先を読んでくれなくてもかまわない。読んでも苦痛を感じるだけであろう。
 ただしみすゞの「ゞ」、この踊り字については現在ではほとんど使われることはないが、彼女の生存時は一般的であり、また彼女が名づけたペンネームなのでそのまま使い、「みすず」と書くことはしない。
 さて、金子みすゞといえば、次の詩について論じないわけにはいかないだろう。あたかも彼女の“代表作"かのように扱われ、また耳に心地好い響きを持つ最後の一行「みんなちがって、みんないい」が一人歩きをしている感さえある(すなわちその作者の名は知らずとも、この一行は知っているかのような)、次の詩を全集より引用する。

「私と小鳥と鈴と」(全集Ⅲ・P145)

私が両手をひろげても、
お空はちっとも飛べないが、
飛べる小鳥は私のように、
地面を速くは走れない。
私がからだをゆすっても、
きれいな音は出ないけど、
あの鳴る鈴は私のように
たくさんな唄は知らないよ。

鈴と、小鳥と、それから私、
みんなちがって、みんないい。

 この詩は小学校の国語教科書に掲載されている。
 なぜこんな半熟な詩がもてはやされるのだろうか。みすゞはもっといい詩をたくさん書いているのに。というのが私のこの詩に対する見解である。なぜこの詩が半熟かを述べる。この詩に出てくる素材は、小鳥と、鈴と、私である。私は置くとして、小鳥も鈴も愛らしいというイメージがある。その愛らしいものを二つ出し、それと自分を比べてそれぞれ優れた点がある、だから自分を尊重しなさい、相手の個性も大切にしなさいとこの詩はうたっているのだろうが、それがどうして最後の行でいきなり、“みんなちがって、みんないい。"という表現に落ち着くのであろうか。
 ここでいうみんなは前行の“鈴と、小鳥と、それから私、"の三者を指し、世に言う全人類あるいは森羅万象のみんなではない。世には正と邪、善と悪、清と濁、美と醜というふうに相反する概念があると考える。ならばその邪、悪、濁、醜といういわば負の概念も詠み込んでこそ、“みんないい"と言えるのであって、小鳥や鈴のような愛らしいイメージを抱かせるものだけと自分を比べて“みんないい"というのは子供騙し、いや子供でも騙されないという思いがどうしても拭えない。私の凡暗な頭でも「雲古は臭いけど畑の肥やしになるから、いい」とか、「友達と喧嘩しても仲直り出来るから、喧嘩したっていい」といった例を思いつく。なぜそれら負の概念には触れずに“みんないい"と言い切れるのだろうか。
「梨の芯」(全集Ⅲ・P126)の中では、梨の芯をそこらに捨てるずるい子も、蟻がひいてゆくから、「ずるい子ちゃん、ありがとよ。」とうたわれている。この詩の最後に、梨の芯を芥箱に捨てるおりこうな子も、そこらに捨てるずるい子も“みんないい"とうたわれるなら共感出来る。「日の光」(全集Ⅰ・P169)の末尾に“みんなちがって、みんないい"と詠まれているなら頷ける。みんなそれぞれ違った人生が有っていいというメッセージを感じる。さらにまた、「みんなを好きに」(全集Ⅲ・P77)の第五連のように、たぶん誰もがきらいであろうと彼女が考えた医者や烏を出して、“みんなを好きになりたいな"と詠むのは解る。どうして小鳥と鈴だけとしか比べないで、“みんなちがって、みんないい"とうたうのか、その本当の訳が理解されているのだろうか。
 なぜ私がこの詩にこんなにむきになるかというと、この詩が小学校の国語教科書に採用されているからである。この詩論を書くに当たり大変参考になった資料として、書籍以外にホームページがある。特に「みすゞ甦りの歩み」はとても参考になった。そのホームページを読み、この詩を掲載した教科書が四冊も有ると知り、あきれてしまった。なお他に「大漁」「ふしぎ」「つゆ」が一冊ずつ採用されている。
 この「私と小鳥と鈴と」の詩としての欠点は他にも有る。まずタイトルを見て頂きたい。
 最後に「と」がついてる。この「と」は何であるかを考えて、関係者は教科書採用を決定しているのであろうか。恐らく何ら気にも留めていないのであろう。この「と」のあとには“家庭"という語句が隠されている、と私は考える。それを説明するにはこの詩の作られた背景を説明する必要がある。ただしその前にお断わりしたいのは、私はどんな背景であれ、作られた詩が傑作ならば何の問題もないと考えるのだが、みすゞの場合、「私」という詩のようにまだ詩まで純化されず、いわば比喩を含む日記の段階にも関わらず、詩集に収められた詩が何点か有るので、その点を関係者は留意して頂きたい。
 この詩はみすゞが娘を出産した約一年後に作られたものと思われる。比喩は詩の生命なので、この詩にも比喩が使われていると考えれば、小鳥は夫、鈴は娘の比喩だと容易に読み取れる。その頃のみすゞの生活状況は悲惨だった。夫は義父と絶縁されたため、実家の熊本へ一時みすゞと共に身を寄せたが、そこでも受け容れられなかったためにまた下関へ舞い戻り、食料玩具店を始めるのだが、その頃夫は遊郭通いを始め、そのために彼女も発病する。みすゞは生活費もままならず、実家にも頼れず、乳呑み子をかかえた彼女が家に寄りつかない夫に対し、家族愛を懐疑的に詠んだのがこの詩である。故人への冒涜と叱責されるかもしれぬが、世間の誤解を解くためにこの詩のすべての比喩と逆説をはずして、改悪して詠むとこうなる。

「私と夫と娘と家庭」 高遠信次

私が外で働いても、
お金はちっとも稼げないが、
お金を稼ぐあなたは私のように、
お家はちっとも守れない。
私が泣きたいと思っても、
泣く訳にはいかないけど、
この泣く赤ん坊は私のように、
たくさんの悲しみは知らないよ。

娘と、あなたと、それから私、
みんなちがって、みんなだめ、
(神様、教えてください!
家族って何ですか?
家庭って何ですか?)

 こんな悲痛な叫びの込められた詩が、はたして小学校の国語教科書に相応しいのだろうか。まだ早いんじゃなかろうか。みすゞの詩「私と小鳥と鈴と」の中のみんなは彼女の家族三人を指しているに過ぎない。この詩は家に寄り付かぬ夫を責め、むずかる娘を責め、そしていずれもを許す彼女の自虐の詩である。みんないいの後には、(と思いたいのに、なぜ)という語句が隠されている。
 この詩が掲載されているため、みすゞの真価を知らない子供達も多いかと考える。詩の技巧的な表面の甘さに目くらまされてはいけない。みすゞはもっともっと素晴らしい詩をいくらでも書いている。こんな半熟の詩が彼女の代表作と扱われるのは、彼女が可哀相でないと考え、あえて詩の改悪を試みた。教科書関係者の再考を促したい。


拙著「詩論・金子みすゞ-その視点の謎」より、一部抜粋・加筆
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