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金子みすゞの見た海

 「幻の童謡詩人」という形容がすっかり定着した感のある女性詩人金子みすゞは、明治三十六年(一九〇三)山口県大津郡仙崎村(現在の長門市)に生まれ、昭和五年(一九三〇)下関にて死去した。わずか二十六年の生涯であった。
 みすゞの生まれ育った仙崎は日本海、二十歳以降に移り住んだ下関は関門海峡と、いずれの地も海に面している。このことに起因すると思われるが、みすゞが詠んだ五百十五篇の詩は、海を題材としたものが非常に多い。島田陽子氏は著作『金子みすゞへの旅』(編集工房ノア)の中で、みすゞの全作品中、海をテーマ、あるいは舞台にした詩は七十二篇に及ぶと調査された。
 そこでこの小論はみすゞが海に関して詠んだ詩を鑑賞することで、みすゞは海に対してどのような思いを抱いていたのかを考察する。まず『日本童謡集』(与田準一編・岩波文庫)に一篇だけ掲載されたみすゞの詩「大漁」から考察を始めよう。

「大漁」(全集Ⅰ・P101)
朝焼小焼だ/大漁だ/大羽鰮(いわし)の/大漁だ。
浜は祭りの/ようだけど/海のなかでは/何万の/鰮のとむらい/するだろう。

 金子みすゞを世に甦らせた児童文学者矢崎節夫氏は、この詩を読んだ大学一年生の時、「『日本童謡集』の中の作品すべてが消えてしまうほどの、激しい衝撃を受けた。人間中心の自分の目の位置をひっくり返される、深い、優しい、鮮烈さだった」と記され、また発表された雑誌『童話』大正十三年三月号に記載された「“大漁"にはアッと言わせるようなイマジネーションの飛躍がある」という西條八十の選評を紹介しておられる。
 この一篇の詩との出会いが矢崎氏をして、十六年にわたるみすゞ捜しの長い旅へ誘(いざな)うきっかけとなるのだが、この詩の“鰮のとむらい"に象徴される“人間中心でない視点"はみすゞのどこから生じたのかを考えてみたい。
 一般に大漁という語句から人が連想するものは、大漁の活況であり、喜びであろう。はたして大漁を眼前にし、魚が殺されたと悲しみを胸に秘める、あるいはその悲しみを詩へ昇華させる詩人が幾人いるであろうか。
 この詩を素直に読めば、大漁じゃない方がいい、鰮がたくさん殺されないからという、現実に漁によって生計を立てている者の心中をまったく斟酌しない、幼稚な理想主義的な作者のかたくなさも伺える。しかしみすゞの思いははたして“幼稚"なのであろうか。このことを考えるために、みすゞが魚を食することについて詠んだ次の詩を見てみよう。

「お魚」(全集Ⅰ・P5)
海のお魚はかわいそう。
お米は人につくられる、/牛は牧場で飼われてる、/鯉もお池で麸を貰う。
けれど海のお魚は/なんにも世話にならないし/いたずら一つしないのに/こうして私に食べられる。
ほんとに魚はかわいそう。

 私はこの詩にまったく共感できない。これまで私は魚をかわいそうと思って食したことは一度もない。魚は人間が食するために神が与え賜うたものだなどと傲慢な言を記すつもりはないが、ただこの詩に見られる“優等生ぶり"に私は違和感を拭えない。
 みすゞは仙崎で書店を営む家庭の長女として生まれ、高等女学校卒業後は二年ほど家業を手伝っていたが、兄の結婚に伴い、二十歳で母の再婚先である下関に移り住み、童謡詩の投稿を始めた。みすゞが詩を書いたのは、二十歳から死去の前年に筆を折るまでの約五年間である。
 しかしみすゞは詩を生業とするプロ詩人ではなく、母の再婚先も書店を経営していたためにその支店の店番を任され、かつ結婚後は主婦業の合問に詩をしたためていた。
 またみすゞは投稿によって詩才を西條八十に認められたが、後年は投稿を止め、三冊の手帳に詩を書き留め、その手帳は八十と弟の正祐に渡され、弟へ託された手帳が没後五十年以上を経て、矢崎氏らの編集により『金子みすゞ全集』として昭和五十九年、JULA出版局より出版された。
 以上のことから、みすゞの詩はすべてが二十歳以降の作品である、そしてその詩のほとんどが下関にて書かれた、また入選作品(大正十二年から昭和三年までの五十六篇)以外は没後に世に出たという三点が、みすゞの詩を考察する上で、無視してはならないポイントと言えるであろう。以上の三点を踏まえた上で、「大漁」と「お魚」を再読してみよう。まずこの二作品はいずれも投稿され、八十に激賞された作品であり、発表時期により「お魚」の方が「大漁」より先に作られたと考えられる。八十は「お魚」についても「どこかふっくりした温かい情味が謡全体を包んでいる」(『童話』大正十二年九月号)と、賛辞を惜しまない。
 しかし私には“お魚はかわいそう"という語旬にどうしても共感できないだけに、ひいては“鰮のとむらい"についても、一種の嘘くささを感じずにはいられない。しかもいずれの詩も二十歳の女性の作品であると知ると、作者の感性に対して賛同できないのである。
 かつまた、仙崎でも下関でも家業が書店であったという点にも、私は着目している。
 書店の子として生まれ、高等女学校卒業という当時としては高学歴なみすゞは、書店勤務という本が身近にある環境の中で詩を書き始めた。ゆえに海を題材とする詩を書いてはいるが、みすゞは漁師の子でもなければ、魚売りの小母さんの子でもないという厳然たる事実が、みすゞが海に対して客観視、換言すればやや距離を置いたと思える「大漁」、そして「お魚」を書くに至らせたのだろうか。みすゞが漁師の子と、魚売りの小母さんについて詠んだ詩を見てみよう。

「海へ」(全集Ⅰ・P226)
祖父(じい)さも海へ、/父(とと)さも海へ、/兄(あに)さも海へ、/みんなみんな海へ。
海の向こうは/よいところだよ、/みんな行ったきり/帰りやあしない。
おいらも早く/大人になって、/やっぱり海へ/ゆくんだよ。

「魚売りの小母さんに」(全集Ⅰ・P206)
魚売りさん、/あっち向いてね、/いま、あたし、/花を挿すのよ。/さくらの花を。
だって小母さん、あなたの髪にゃ、/花かんざしも、/星のよなピンも、/なんにもないもの、さびしいの。
ほうら、小母さん、/あなたの髪に、/あのお芝居のお姫さまの、/かんざしよりかきれいな花が、/山のさくらが咲きました。
魚売りさん、/こっち向いてね、/いま、あたし、/花を挿したの、/さくらの花を。

 まず「海へ」だが、この詩では祖父・父・兄がみな漁師になり、“海の向こう"へ行ったきり帰って来ないとうたわれている。そして“おいら"(これは文脈から考えて弟である)もいずれそうなりたいと。
 この詩の“海の向こう"とは外国を指すのではない。“みんな行ったきり帰ってこない"とは海で遭難することだと解釈すれば、そこは“彼岸"だと考えた方が妥当であろう。
 次に「魚売りの小母さんに」だが、“魚売りの小母さん"を見るみすゞの視線はきわめて優しい。しかしそこには同情とも呼ぶべき上の者が下の者を哀れむ心情は感じられても、自らもその一人であるという同属意識は希薄である。
 私がみすゞの海と海に関連する魚などを題材にした詩を読み、時として感じるのは、作者の海に対する疎外感である。それを顕著に感じさせるのが次の詩である。

「海の色」(全集Ⅲ・P50)
朝はぎんぎら銀の海、/銀はみんなを黒くする。/ランチの色も、帆の色も、/銀の破(や)れめもみな黒い。
昼はゆらゆら青い海、/青はみんなをあるままに。/うかぶ藁くず、竹のきれ、/バナナの皮も、あるままに。
夜はしずかな黒い海、/黒はみんなをおいかくす。/船はいるやら、いないやら、/赤い灯(ともし)のかげばかり。

 この詩は海(厳密には港)の朝・昼・夜の情景を銀・青・黒の異なる三色で表現しようという意図に基づいて作られているが、“バナナの皮"という語句が使われていることから、この海は下関港だと私は判断した。バナナは現在と違い、当時は非常に高価な輸入品だからである。
 さてこの詩の銀・青・黒の三色が港をどう変化させるかを順に読むと、“黒くする"“あるままに"“おいかくす"である。帆の破れめは黒く、ゴミはそのまま、船はいるやら、いないやらである。私はこの詩にみすゞの下関港に対する違和感と反発を明瞭に感じた。
 このみすゞの感覚は何に起因するのだろうか。それを考察すべく「海の色」の第一連の、港に停泊した船の“帆"をキーワードに、同じく「帆」と題された二篇の詩を見てみよう。

「帆」(全集Ⅰ・P223)
港に着いた舟の帆は、/みんな古びて黒いのに、/はるかの沖をゆく舟は、/光りかがやく白い帆ばかり。
はるかの沖の、あの舟は、/いつも、港へっかないで、/海とお空のさかいめばかり、/はるかに遠く行くんだよ。/かがやきながら、行くんだよ

「帆」(全集Ⅲ・P41)
ちょいと/渚の貝がら見た聞に、/あの帆はどっかへ/行ってしまった。
こんなふうに/行ってしまった、
誰かがあった------/何かがあった------

 いずれの「帆」の詩も私には不可解である。前述の「帆」は港に着いた船の帆は古びて黒く、沖行く船の帆は白く輝くとうたわれている。しかしその船は永遠に港に着くことはないと。手に入るものは汚れ、手に入らないものこそ美しいという比喩だろうか。
 そして後述の「帆」は、脇見をしている間に“あの帆"はどこかへ行ってしまう。ずっと見ていないと見失ってしまうものがあるという警告、いや後梅だろうか。何とも私には不可解である。みすゞには海に関してもっと不可解な詩がある。それがこれである。

「海を歩く母さま」(全集Ⅲ・P34)
母さま、いやよ、/そこ、海なのよ。/ほら、ここ、港、/この椅子、お舟、/これから出るの。/お舟に乗ってよ。
あら、あら、だァめ、/海んなか歩いちゃ、/あっぷあっぷしてよ。/母さま、ほんと、笑ってないで、/はよ、はよ、乗ってよ。
とうとう行っちゃった。/でも、でも、いいの、/うちの母さま、えらいの、/海、あるけるの。
えェらいな、/えェらいな。

 人が海の上を歩けないのは言うまでもない。しかし幼女が母に語りかけるように書かれたこの詩の母は船に乗らず、海を歩いて行ってしまう。この母はみすゞの母ミチであろうか。詩人が詩を書く場合、自らの実人生での思いを詩に託すことは決して少なくないかと思われる。そこでみすゞと母の関係について言及しよう。
 みすゞの母はみすゞが十六歳の時に再婚し、下関へ嫁いだ。これはみすゞの父の庄之助はすでにみすゞが三才の時に清国で死去していたが、ミチの妹フジが病死したために、その連れ合いである上山松蔵の許へみすゞの母が嫁いだためである。これによりみすゞは祖母・兄との三人で仙崎で暮らす。だが兄の結婚により、母の再婚先である下関に移り住む。
 母の再婚が多感な十六歳のみすゞにとって望ましいことであったとは思えない。また仙崎から下関までみすゞの母は船に乗って嫁いで行った。だからその時の思いを回顧して、みすゞはこの「海を歩く母さま」を書いたのだろうか。そう考えればこの詩の母が乗船を拒否する“お舟"はみすゞ自身の比喩かもしれない。
 そう考えるのは、みすゞの手帳にはこの詩に続けて次の詩が記載されているからである。

「舟の唄」(全集Ⅲ・P36)
わたしは若い舟だった。/あの賑やかな舟おろし、/五色の旗にかざられて、/はじめて海にのぞむとき、/限り知られぬ波たちは、/みんな一度にひれ伏した。
わたしは強い舟だった。/嵐も波も渦潮も、/荒れれば勇む舟だった。/銀の魚を山と積み、/しらしら明けに戻るときゃ、/勝った戦士のようだった。
わたしも今は年老いて、/瀬戸ののどかな渡し舟。/岸の藁屋の向日葵の、/まわるあいだをうつうつと、/眠りながらもなつかしい、/むかしの夢をくり返す。

 この詩は舟に託して人問の青年期、壮年期、老年期の三時期を詠んだものだと思えるが、みすゞがこの詩を詠んだのは結婚一年後の壮年期、右の詩で言えば第二連の“強い舟"の時期である。
 ところがこの詩では、年老いた“渡し舟"が今だと詠まれている。“若い舟"がみすゞの仙崎時代、“強い舟"が下関へ出てから結婚するまで、“渡し舟"が結婚後のみすゞの象徴だとこの詩は読めなくもない。
 私はこの詩を鑑賞しただけで、みすゞは現実に失望し、過去を回想(みすゞの表現を借りれば、"なつかしい昔の夢をくり返")していたなどと言うつもりは毛頭ない。しかしみすゞは下関に居住していながら、下関を題材とした詩はほとんど書かず、多くが生まれ育った仙崎の光景なのである。それを端的に象徴するのが、「仙崎八景」である。
 「仙崎八景」は仙崎と青海島(現在はいずれも山口県長門市)の光景を情感を込めて詠んだ八篇の詩より構成される。この八篇のうち、二篇を選んで考察を加えてみよう。

「花津浦(はなづら)」(全集Ⅲ・P177)
浜で花津浦眺めてて、/「むかし、むかし」と、/ききました。/浜で花津浦みる度に、こころさみしく/おもい出す。
「むかし、むかし」と/花津浦の/その名の所縁(いはれ)きかされた/郵便局の小父さんは、/どこでどうしているのやら。
あのはなづらの/はな越えて、/お船はとおく/消えました。
いまも、入日は海に燃え、/いまもお船は沖をゆく。
「むかし、むかし」よ/花津浦よ、/みんなむかしになりました。

 花津浦は青海島の最西端の景勝地であり、岩礁と数本の松より構成されている。余談ながら青海島を周遊する観光船は、乗客に写真を撮ってもらうため、まずこの花津浦の近くに数分間、停船する。
 ところでこの詩の心に染み入るような読後感は何に起因するのだろうか。追憶、喪失、懐旧などと漢字を用いて、その想いを語るのは難しくない。だがそれらがみすゞの表現する“どこでどうしているのやら"や“みんなむかしになりました"といった平明な語句より、その情感を伝えるのに有力だとは、こんな詩を読むと私には思えなくなってしまう。

「弁天島」(全集Ⅲ・P179)
「あまりかわいい島だから/ここには惜しい島だから、/貰ってゆくよ、綱つけて。」/
北のお国の船乗りが、/ある日、笑っていいました。
うそだ、うそだと思っても、/夜が暗うて、気になって、/
朝はお胸もどきどきと、/駈けて浜辺へゆきました。
弁天島は波のうえ、/金のひかりにつつまれて、/もとの緑でありました。

 弁天島は仙崎湾に浮かぶ小島だが、現在は周囲が埋め立てられて、陸続きになっている。弁財天をまつった神社があるだけの、誰も住んでいない小島である。さてこの詩では登場人物について考えてみよう。“北のお国の船乗り"は誰に対して弁天島を貰って行くよと、言ったのだろうか。みすゞだろうか。
 無論、この詩は弁天島の愛らしさを強調したいという意図に基づいて書かれたんだろうから、船乗りもその発言もフィクションであろう。しかし私がこの詩を重視するのは、この詩の“朝はお胸もどきどきと、/駈けて浜辺へゆ"く人物が、あたかも少女時代のみすゞだと、読者が錯覚するかのように書かれているからである。
 ここで、読者はよろしければこの「仙崎八景」の二篇の詩と、明らかに下関港を詠んだと私が考えている前述の「海の色」とを読み比べて頂きたい。その色調の差異に驚かれるのは、私だけではないであろう。
 このような故郷仙崎への懐旧と下関に対する疎外感、換言すれば過去回帰への欲求と現実への当惑がみすゞの詩の特徴の一つであり、前者を端的に示すのが「仙崎八景」であり、後者を端的に示すのが「海の色」とそれからこの詩だと私は考えている。

「海とかもめ」(全集Ⅰ・P231)
海は青いとおもってた、/かもめは白いと思ってた。
だのに、今見る、この海も、/かもめの羽も、ねずみ色。
みな知ってるとおもってた、/だけどそれはうそでした。
空は青いと知ってます、/雪は白いと知ってます。
みんな見てます、知ってます、/けれどもそれはうそかしら。

 この詩に顕著に見られるような現実、あるいは固定観念への素朴な疑問を胸に抱いたみすゞは、対象を異なる比喩をもって表現しようと挑戦し、成功する。それがこれである。

「波」(全集Ⅲ・P148)
波は子供、/手つないで、笑って、/そろって来るよ。
波は消しゴム、/砂の上の文字を、/みんな消してゆくよ。
波は兵士、/沖から寄せて、一ぺんに、/どどんと鉄砲うつよ。
波は忘れんぼ、/きれいなきれいな貝がらを、/砂の上においてくよ。

 この詩は「波」という対象を四つの比喩で形容することで、その多面的な実態に迫ろうとした意欲作だと私は考えているのだが、その巧みさには脱帽する。波の比喩を考えろと言われたら、私は第二連だけは思いつく自信がある。砂に書いたラブレターを波が消すとか何とかを、耳にしたことがあるからだ。しかし他はまったく自信がない。
 このように技巧的に習熟したみすゞは、さらに故郷仙崎が捕鯨で賑わったことを思い出し、次のような映像性に満ちた詩を作る。

「鯨捕り」(全集Ⅲ・P201)
海の鳴る夜は/冬の夜は、/栗を焼き焼き/聴きました。
むかし、むかしの鯨捕り、/ここのこの海、紫津(しづ)が浦。
海は荒海、時季(とき)は冬/風に狂うは雪の花、/雪と飛び交う鈷(もり)の縄。/
岩も礫(こいし)もむらさきの、/常は水さへむらさきの、/岸さへ朱(あけ)に染むという。
厚いどてらの重ね着で、/舟の舳(みよし)に見て立って、/鯨弱ればたちまちに、/
ぱっと脱ぎすて素っ裸、/さかまく波におどり込む、/むかし、むかしの漁夫(りょうし)たち------
きいてる胸も/おどります。
いまは鯨はもう寄らぬ、/浦は貧乏(びんぼ)になりました。
海は鳴ります。/冬の夜を、/おはなしすむと、/気がつくと。

 この詩が映像的に優れている点は言及するまでもないかと考えるが、もう一つ秀でた点として、時間の推移に配慮して書かれている点を挙げたい。
 詳細に述べれば、物語の始まりを告げる第一連は過去である。鯨捕りの情景を語る第二連から第五連の“むかしの漁夫たち一一"までは過去の過去である。だがそれを、“きいてる胸もおどります。"の語句を以て過去へ戻し、かっ“いまは鯨はもう寄らぬ、"と現在へ移行させ、さらに再び第六連では過去へ戻している。しかし第六連の過去は第一連の過去より時間が経過した過去である。実に鮮やか手腕である。
 なおこの詩の鯨捕りの舞台である“紫津が浦"は現在も同じ地名で呼ばれているが、仙崎と青海島を結ぶ瀬戸(現在は青海島大橋が架けられている)の東側をこう呼んでいる。
 紫津が浦に面した青海島の通(かよい)と呼ばれる地区の向岸寺には、鯨を弔った“鯨墓"と称された墓碑が建てられ、さらに通には現在、捕鯨に関する資料を集めた「くじら博物館」が建てられている。
 ところで通にはみすゞの父である庄之助の実家があった。庄之助は仙崎の金子家へ養子に入ったのだが、みすゞが祖父母の住む通を訪ね、祖父母から鯨捕りの話を聞いたことが、この詩を生み出す源になったのであろう。
 また庄之助はみすゞが三才の時に清国で客死するのだが、以上の事情を念頭に置いた上で、次の詩を読んで頂きたい。

「鯨法会(くじらほうえ)」(全集Ⅲ・P221)
鯨法会は春の暮れ、/海に飛魚採れるころ。
浜のお寺で鳴る鐘が、/ゆれて水面をわたるとき、
村の漁夫が羽織着て、/浜のお寺へいそぐとき、
沖で鯨の子がひとり、/その鳴る鐘をききながら、
死んだ父さま、母さまを、/こいし、こいしと泣いています。
海のおもてを、鐘の音は、/海のどこまで、ひびくやら。

 みすゞの父は海を渡って清国へ出かけたまま帰って来ない。みすゞが海辺に立ち、亡き父を偲び、この詩の鯨の子のように“こいし、こいしと泣"きたくなったことは幾度もあったであろう。しかしみすゞは父の面影を知らない。その思いをみすゞは次のような詩へ昇華させている。

「お坊さま」(全集Ⅰ・P87)
小さい波が来てかえる、/入江の岸のみちでした。
私のお手々ひいてたは、/知らない旅のお坊さま。
なぜか、このごろおもうこと、/「お父さまではないかしら。」
けれども遠いむかしです。/とてもかえらぬむかしです。
ざわざわ、蟹が這っていた、/入江の岸のみちでした。
私のおかおみていたは、/たんぽぽ色のお月さま

 さてここで、冒頭で考察を加えた「大漁」へ戻ろう。「大漁」について考えるために、この詩のキーワードだと私が考えている“鰮のとむらい"の特に“とむらい"について考えてみよう。
 みすゞがなぜ“とむらい"をテーマとして詩を詠み始めたのか、それを考えるにはやはり詩の背景である作者の実人生について言及しなければならないだろう。繰り返しになるが、みすゞが下関へ移り住んだのは、兄が結婚したからである。
 母の再婚により、高等女学校に通うみすゞは祖母・兄と住んでいた。しかし兄の結婚により、みすゞが任されていた金子家の家事一切は兄嫁が担うことになった。だが兄嫁はみすゞと高等女学校の同窓であり、みすゞと同年齢である。
 兄嫁と小姑になるみすゞの折り合いがぎくしゃくするのを心配して、母がみすゞを下関に呼んだのか、それとも兄が下関へ行けとみすゞへ命じたのかは不明である。しかしみすゞの下関移住は決してみすゞの発意からではないであろうと、私は考えている。もし下関行きがみすゞ自身の意思によるのならば、これまで読んで来たような喪失と懐旧の思いに満ちた詩を、みすゞが書くはずはないと考えるからだ。
 みすゞは心ならずも下関へ移り住んだのであろう。自分を捨てた母の住む下関へ……。
 こう考えてみすゞの処女作の一篇「お魚」の第二連、“けれども海のお魚は/なんにも世話にならないし/いたずら一つしないのに/こうして私に食べられる。"を再読すると、私は胸が詰まってならない。私はこの「お魚」には共感できないと前述したが、それはこの詩の“かわいそうなお魚"が、みすゞの分身、換言すれば下関行きがみすゞにとって“とむらい"だとは思いもしなかったからである。
 みすゞの詩は一般に童謡詩と称されるが、はたしてすべてを童謡詩と呼んでよいのだろうか、その中には象徴詩の範疇に加えるべき詩も多いのではなかろうかという疑念を、私は有している。なぜならみすゞの私淑した西條八十が自他ともに認める象徴派の詩人だったからである。
 前川知賢氏は『西條八十論』(弥生書房)の中で象徴詩としての条件を、「何よりも大切なのは内的世界、いわゆる主体の精神から出発することあり、これを生々と、真に象徴的に描くことが求められているのである」と記し、またその象徴詩を鑑賞する姿勢として、「そこに生命と表現、精神とその象徴との切々たる相即(そうそく)が予定されるのであり、徒(いたずら)に表示内容のみに捉われることは誤りであり、少なくとも片手落ちといわざるをえぬのである」と記している。
 前川氏の言説に従えば、必ずしも作者であるみすゞが童謡詩だと意識せず、むしろこれは象徴詩だと意識して書いた詩も少なくないのではなかろうか。そして対象だけではなく、作者自身も詩の内部に象徴させるという手法をみすゞが使ったという観点から考えれば、「大漁」の“鰮"もまたみすゞの分身ではなかろうかという推論が成り立つ。
 そう考えると、「大漁」の“浜は祭りのようだけど"の浜とは、仙崎とは異なり毎日が祭りのような人出の大都会、すなわち下関を象徴するのではなかろうかと考えられる。
 ここで読者は“鰮"がみすゞ、“浜"が下関を指すと考えて、「大漁」を再読して頂きたい。そう考えてこの詩を読んで頂ければ、この詩の“海のなか"がどこを指すか、すぐにおわかり頂けるかと思う。……そう、みすゞの故郷、仙崎である。
 そろそろ結論に入ろう。
 これまでの考察からみすゞにとって海とは、眼前に広がる関門海峡を指すのではなく、その多くが故郷仙崎の日本海を指すとわかった。しかもそれは単に少女時代に遊んだ追憶の海としてだけでなく、亡き父を偲び、また自分を置いて再婚して行った母へ想いを寄せた、みすゞにとって神聖な場所であった。
 みすゞは視覚として海を見ている、関門海峡の海を。だが観念として見た、換言すれば心の中で見た海は、故郷仙崎の海である。具体的に述べれば「大漁」の活況を呈する“浜"は視覚だが、鰮のとむらいをする“海のなか"は観念である。
 みすゞが視覚と観念という対比する概念を念頭に置いて詩を書いていたことを、次の詩をもって証明しよう。

「蜂と神さま」(全集Ⅱ・P100)
蜂はお花のなかに、/お花はお庭のなかに、/お庭は土塀のなかに、/
土塀は町のなかに、/町は日本のなかに、/日本は世界のなかに、/世界は神さまのなかに。
そうして、そうして、神さまは、/小っちゃな蜂のなかに。

 この詩の素材は小から大へと広がりを見せるが、その前半は視覚、後半は観念と、ちょうど二等分できる点に留意してほしい。すなわち“蜂、お花、お庭、土塀"は作者の視覚であり、読者はその映像が脳裏に浮かぶ。しかし“町、日本、世界、神さま"は作者の視野の外、すなわち観念である。そして最後に神は世界の中にいるが、かつその神が再び蜂の中にいるとうたうことによって、神が観念の極限と視覚の最先端に実存することを啓示する。最後の蜂はもう最初の蜂ではない。神の宿る蜂である。この連鎖の詩を読んだ者は生命の神秘に気づき、また神の存在について深く思慮するであろう。実に計算された作品である。
 かくてみすゞは、目には見えなくても心には見えるものが有るんだという考えに至り、それがさらに次のような詩を作るに至った。

「星とたんぽぽ」(全集Ⅱ・P108)
青いお空の底ふかく、/海の小石のそのように、/夜がくるまで沈んでる、/昼のお星は眼にみえぬ。
見えぬけれどもあるんだよ、/見えぬものでもあるんだよ。
散ってすがれたたんぽぽの、/瓦のすきに、だアまって、/春のくるまでかくれてる、/つよいその根は眼にみえぬ。
見えぬけれどもあるんだよ、/見えぬものでもあるんだよ。

 みすゞのうたう“見えぬけれどもある/見えぬもの"とは何か、もしそれを三つ挙げろと問われたならば、“ふるさと"“むかし"そして“こころ"と、私は答える。
 みすゞは見えぬものを見つめつつ、約五年の間に五百十五篇の詩を書き、二十六歳にて自らの命を断った。その詩作の原点は自らの望まぬ下関行きであり、その思いを発露すべく、自己の鉱脈を掘り下げようと努力した過程と結果が、数々の優れた詩を生み出した謎である。だがみすゞのベクトルは内へ、もしくは過去へ向かうことはあっても、外へ、もしくは未来へ向かうことはなかった。
 金子みすゞは海に未来を見ることなく、生き急ぎ、死に急いだ、あたかも“海にふる雪"のごとく。

「雪に」(全集Ⅲ・P230)
海にふる雪は、海になる。/街にふる雪は、泥になる。/山にふる雪は、雪になる。
空にまだいる雪、/どォれがお好き。

“山にふる雪"になれなかったみすゞの夭折が惜しまれてならない。たとえ“泥に"なっても、私はみすゞへ、“街に"降ってほしかった。
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