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対馬島主宗義調(本文)

          一、
 三張りの白帆を満々と膨らませ、一艘の関船(せきぶね)が折からの順風に身を任せ、対馬の東岸を北上していた。時は天正十五年(一五八七)五月、天気晴朗。
 関船は早船とも称したが、柳の葉のごとく船首を尖らせた快速艇のことである。その舳先に立った柳川調信(しげのぶ)は緑なす山々が海へ切り立ち、赤茶けた岩礁が波に洗われているのを眼にするや、幾度見ても対馬は山ばかりだ。対馬にいま少しの平地があったれば……、との思いが心中をよぎったが、いやいや何を詮なきことをと思いを改め、首を振った。潮風が調信の裾を揺らす。
 その調信を甲板で認めた柚谷(ゆたに)康広がつかつかと調信へ近寄り、声をかけた。
「柳川殿、ここにおらしたとでござるか」
 調信は振り返り、首を小さく縦に振った。
 柳川調信は筑後柳河の出身だが上方の事情に通じていたために、対馬島主後見人宗義調に請われて対馬へ仕官し、上方ならびに九州の情報探索の任を一手に担っていた。旧名は権之介と称していたが、宗義調より一字を賜り、調信と改名した。一方、柚谷康広は生粋の対馬人である。歳は調信が康広より十ばかり下であった。
 康広は調信と肩を並べるや、
「ばってんか、此度(こたび)ん使いは気が重うござしたな」
と調信へ同意を求めた。だが調信は舳先に寄せては白く砕けて散る波に眼をやるばかりで、康広へ何も応えようとはしなかった。
 柳川調信と柚谷康広は此度、宗義調の命により薩摩川内(せんだい)へ赴いた。柳川調信は対馬島主宗義智(そうよしとし)の名代として、柚谷康広はその副使としてである。それは関白豊臣秀吉へ対馬臣服を誓い、拝謁を賜るべく九州征伐の陣所へ馳せ参じたんだが、秀吉より九州平定後は「高麗」まで兵を進めると記された朱印状を昨年六月に落手していた宗義調だけに、重臣柳川調信をして秀吉の真意を探らんと薩摩の陣所まで遣わした次第であった。
 対馬は日本と朝鮮を結ぶ交通線上に位置する。しかも島土はまったくと言っていいほど平地を有せず、その土壌は米作に適していなかったために、いわば朝鮮との交易だけが対馬がその国体を維持する生命線であった。それだけに秀吉の書状に記された「高麗入り」云々は、宗義調にとって決して看過し得る記述ではなかった。
 同月四日、両名は秀吉が島津義久を征伐せんと設けた川内(せんだい)泰平寺の御座所において首尾よく秀吉の拝謁を賜ったが、秀吉は両名に、うぬらでは話にならぬ、島主を儂の許へ差し遣わせよと厳命し、子細については小西行長より申し渡すと右筆にしたためさせた。手渡された朱印状を恭しく拝領した調信は口上もそこそこに、秀吉への拝謁を終えた。

 対馬最大の入江、府中(現在の厳原:いづはら)の目印である、ひときわ高くそびえ立った立亀岩(たてかめいわ)の絶壁が眼に入るや、
「……もうちょいで府中でござるな」
 と、康広は調信と声をかけたが、調信はその問いにまたも応えることなく振り向きざま、
「帆ば下ろせ、こいよりかは櫓で行く。水夫(かこ)らは配置につけい」
 と、音声(おんじょう)を発した。
 府中港の桟橋で以酊庵(いていあん)の禅僧、景轍玄蘇(けいてつげんそ)は関船が入って来るのを認めるや、その船へ向かって大きく手を振った。甲板でそれを認めた柚谷康広が同じく大きく手を振って、僧玄蘇へ応える。
 景轍玄蘇は元々は博多聖福寺の臨済宗住持であったが、博多の豪商、島井宗室の推薦により正使として七年前、朝鮮の首府である漢城へ柳川調信を従えて渡って以来、対馬に腰を据えている。朝鮮渡航の目的は朝鮮を介して明へ通貢したいと申し出るためであり、その願いは朝鮮の認可する処ではなかったが、対馬帰還後は博多へ帰ることなく義調の要請に応じて府中の地に庵を編んだ。その庵の名を以酊庵としたのは彼の生年である天文六年(一五三七)の干支が丁酉だったからである。
「お役目、大儀でござった」
 桟橋へ降り立った両名を玄蘇はねぎらった。
「なんの。……玄蘇殿こそわざわざのお出迎え、痛み入ります」
 調信が両の手を膝へ当て、低頭した。康広もそれに倣う。
「御西殿(おにしどの)より帰着され次第、時を置かずして登城されたしとのお申し付けでござる。すぐこれより城へ参られたし」
 御西殿とは宗義調の通称である。義調は家督を従兄弟の将盛の長子である家尚(いえひさ)に譲り、府中宮谷の地へ隠居していたので、御西殿と呼ばれていた。しかしその家尚も病弱を理由に家督を次子の義純(よしずみ)へ譲り、御東殿と呼ばれていたが、ほどなく病死したために今は御東殿と呼ばれる者はいない。家尚、そしてその家尚から家督を譲られた次子の義純、ならびに三男の調国(しげくに)がいずれも病により相次いで夭折したために、将盛の四男である義智がわずか十二歳にして島主の地位に就いた。島主に就いた際は将軍足利義昭から昭の一字を賜ったので昭景と名乗ったが、天正十四年七月に義智と改名した。
 しかしながら義智は当年とっていまだ二十歳の若輩であったために、齢(よわい)五十六になる義調が隠居の身ながら島主後見人として国政の実権を握っていた。その義調が景轍玄蘇を対馬へ留めたのは、玄蘇は漢文が書け、かっ漢詩に通暁していたからである。当時も室町期も日朝外交は僧侶の独断場であった。それは日本も朝鮮も漢字を解し、外交交渉が筆談を中心に行われたからである。また交渉後の宴席では漢詩の応酬をするのが通例であったため、学識の有る僧侶は不可欠の存在であった。義調は朝鮮との折衝役を彼に期待し、いわば対馬の外交顧問として島井宗室より玄蘇を譲り受けた。
 玄蘇は柳川・柚谷の両名へ登城を促すや、両名の返事も待たずに背を向け、宗家の居城である府中金石城へと歩みを進めた。金石城は桟橋から徒歩で数分の至近距離にあった。

 府中金石城、謁見の間。
「権之介、近う」
 宗義調は柳川調信を旧名で呼んだ。
「はっ」
 調信が義調、ならびにその右隣に座した島主義智へにじり寄る。
「関白殿下の書状ばあ差し出せ」
「はっ、こちらに」
 調信は低頭したまま起ち上がり、秀吉の書状を義調へ手渡した。
 義調は書状を開き、黙読を始める。
 島主義智・僧玄蘇・調信・康広の四者は固唾を飲んで、義調を見守った。
 義調は一読するや書状を義智へ渡し、
「小西摂津守からも書状を賜ったつか」
 と、調信へ質した。
「御意。……こちらに」
 調信は再び起ち上がり、義調へ書状を渡した。
 義調は再び黙読を始め、読み了えるやその書状も義智へ手渡した。
 義智が読了するのを見計らって、義調は二通の書状を玄蘇へ手渡すよう命じた。
 義智は黙して義調の言に従い、起ち上がって玄蘇へ近づき、書状を玄蘇へ手渡した。玄蘇は一礼して、書状を受取る。
「玄蘇殿、願わくは音声(おんじょう)ばあ発して、関白殿下の朱印状から御一読いただきたい」
義調が玄蘇へ命じる。玄蘇は承知したと伝えるべく黙して顎を引き、朗々と音読を始めた。
朗読半ばに至って、義調が玄蘇の言を遮った。
「玄蘇殿、いまんところばもう一遍、朗読されたし」
 玄蘇は再び黙して顎を引き、声高らかに大音声を発した。
「高麗国へ至る御人数は差し渡されるべき候の条、其の意を成すに、忠義を抽きんずべきことが肝要に候(高麗国へ派遣する兵数は直接会って書面にて申しつけるが、その成就のために、忠義を励むことが肝要である)」
 誰も口が利けなかった。しばし沈黙の時が流れたが、おもむろに義調が口を開き、
「関白殿下は正気か」
 と、調信に質した。調信は黙して肯(がえ)んずる。
「高麗ん国にゃとうの昔に滅び、今は李氏が朝鮮ん国王になっとるちゅうにい。……そん朝鮮ば攻めるけん、忠義ば励めっちゃ………」
 義調は天井を仰いだ。
 対馬は朝鮮と密接な関係を有する。しかしその関係は交易という友好の歴史だけに限らなかった。今を去ること三百有余年の蒙古襲来による元・高麗連合軍の対馬侵略は言うに及ばず、室町期の応永二十六年(一四一九)には倭寇に悩まされていた朝鮮が、倭寇の根拠地と目していた対馬を急襲し、対馬島民と干戈を交えた。その兵船は二百二十七隻、軍兵は一万七千名に及んだと云う。
 そしてまた永正七年(一五一〇)には、朝鮮王朝が日本船の来航を許し、居住を認めていた三浦(さんぽ:乃而浦、富山浦、塩浦)の倭館(日本商館)に居留し、貿易や漁業に従ことしていた日本人(これを恒居倭:こうきょわと称した)が既得権益の圧迫に反発、時の対馬島主である宗義盛の援軍を得て、武装蜂起を企てたが失敗。これにより朝鮮と対馬の国交は断絶したが、対馬の懸命の謝罪外交により、対馬が朝鮮へ派遣する一年毎の貿易船(これを歳遣船と称した)を従来の半分の二十五隻と制限し、開港地を乃而浦(現在の熊川齎浦)に限定する壬申約条をその乱の二年後に結び、かろうじて朝鮮と対馬の命脈は保たれていた。開港地はのちに富山浦(現在の釜山)も加えられ、また歳遣船は前述した僧玄蘇および柳川調信の渡航による交渉により三十隻まで引き上げられていたが、この歳遣船の制限撤廃が対馬の悲願であった。
 朝鮮が対馬に望んだのは倭寇の取締り、ならびに漂流民の送還である。一方、対馬は朝鮮からの米・豆類の輸入を渇望した。この米を朝鮮の史書は歳賜米と記し、その石高は応永の外冠によりそれぞれ二百石に制限され、また三浦の乱により百石に半減された。賜の字があてられているのは対馬が朝鮮に対して、朝貢の礼を執ったために貿易が許されたからである。故に朝鮮の史書には対馬を慶尚道の属州と記したものもあり、対馬には朝鮮より授けられた告身(こくしん:朝鮮の位階を授与する認証)や図書(ずしょ:入港許可書)が、今も残されている。
「続きも読みますか、御西殿」
 天井を仰いだままの義調に対し、玄蘇が問うた。
「頼んます」
 義調は玄蘇へ顔を向け、促す。
 玄蘇が再び朗々と音声を発する。
「然るに只今人質進上候と難も、猶ほ実子を以て相ひ越させ候へ……」
 またまた一座を重い沈黙が支配した。臣服を誓うのにその証として、領主の実子を人質として差し出すのが当節の習わしであったが、対馬島主たる義智はまだ歳若く、子をなしていなっかったので、遠縁の子を人質として秀吉へ差し出したのだが、秀吉が実子でなければ承知しないというのである。
義調は腕を組み、黙考する。その顔色を島主の義智が伺う。
「小西摂津守からん書状もお読みいたしましょうか」
 玄蘇が義調に諮った。
 義調は軽くうなずいて玄蘇へ朗読を促し、瞑目して玄蘇の言に耳を傾けた。玄蘇の朗々とした声が、城内に響き渡る。
「…………自ら今権之介殿へ申し渡し候、恐惶して謹言す。五月八日、宗讃岐守(義調を指す)殿へ。行長。……以上でござる」
「大儀」
 義調が玄蘇へ声をかけた。玄蘇は目礼する。
 義調の頬は知れず緩んでいた。行長の書状の中に、人質は実子には及ばず、親類縁者の中から年少の者を差し出せば可なり。これは関白殿下の内々の指示であると記されていたからである。また行長の書状は五月八日付、秀吉の朱印状は同月四日付である。これは柳川調信が秀吉の拝謁を賜ったあとも同地に留まり、小西行長へ接触して秀吉の朱印状に記された実子云々を反故(ほご)にすべく画策したことを意味する。義調の心中に、やはり権之介は頼りになる男よ、との思いがよぎったが殊更に顔をしかめ、
「小西殿が余に筑前までしゃっち出向かれよっち、そげん申されたっか」
 と、調信へ質した。しゃっちとは必ずの意味である。
「御意」
 調信はそう答え、小さくうなずいた。
「うむん、ほんなら行かにゃあならんめいな、筑前へ」
 義調は二十歳の時に島主の地位に就いたが、従兄弟の将盛の長子である家尚が二十歳を迎えた際に島主の地位を譲り、隠居した。それゆえ島主義智が二十歳を迎え、かっまた秀吉へ臣服を誓うこの機会に島主後見人の座を降り、義智へ対馬国政を一任したいと考え、秀吉と行長への書状は義智名義でしたためさせた。だが行長の書状の中に、義調自身が筑前まで御出頭されたし、秀吉が上洛してからでは遅い。ことは急を要すると記されていた。
 義調は再び黙考した。
 義調は行長と面識がない。秀吉靡下(きか)で頼るべきは小西摂津守ただ一人と力説する柳川調信の言を容れ、義調は行長へ朝鮮の鷹二羽、虎皮二枚、てりふ(照布と漢字を当てる。朝鮮から輸入した上質の布の呼称)五枚を進物として贈り、秀吉への取りなしを依頼した。ちなみに秀吉への進物は鷹五羽、花莚(はなむしろ)十枚、弓矢五十張であった。朝鮮の鷹は当節の戦国武将の闇では垂誕の進物として珍重されていた。
 義調はしばし黙考の後、玄蘇へ顔を向け、質した。
「玄蘇殿は小西摂津守と御面識は?」
「摂津守とは島井さまが博多で開かれましたお茶会で一度だけお眼にかかったこつがござります。ばってんかほんの二言、三言、言葉を交わした程度でござります。ただ堺の商家の御出自で、それにい……」
「それに、何な?」
「……耶蘇教に帰依しておられるとのこつ。拙僧はそれ以上のことは知り申さず」
 玄蘇は臨済宗の禅僧である。舶来の邪宗である耶蘇教を決して心よく思っていないのは、充分に察せられる。義調はそれ以上、訊くのを憚った。
 ちなみに博多の豪商、島井宗室は茶人としても知られ、朝鮮から対馬を介して珍貴な茶器を買い付けていたため、宗義調とは泥懇の間柄であった。また宗室は茶人でもあったために、千利休ら堺の著名な茶人とも旧知の間柄である。宗室は彼らの紹介で、堺で薬種問屋を営む小西隆佐の次子である行長とも誼(よし)みを通じていた。
 義調は調信の左隣で畏まっていた柚谷康広へ徐に視線を向けた。
「康広」
「はっ」
「小西摂津守に会うた時んこつばあ、子細に述べいっ」
 柳川調信は行長と旧知の間柄である。だから初対面の康広に行長の印象を述べさせて、行長の人柄を探ろうというのである。康広は畏まって言上を始める。
「おそれながら御西殿、ならびに島主義智公に御報告申し上げます。拙者が思いますに、小西摂津守は思慮深き人かっちい、お見受けしました。歳は確か三十を少し過ぎられたばかりっちい聞いとったとばってんか、それんしてはえろう落ち着き払った御様子で、拙者は摂津守の人柄に心服いたしましたでござります。……摂津守は関白殿下の御意向ば無碍にせんごつ、高麗入りについちも対馬より早急に快諾の返答ばせいち、きつくお申し付けになったとばってんか、その内心じゃあ御西殿が直接お目通りばあなされて、なんとか関白殿下の心変わりば促して欲しか御様子でござい申した」
「なにい、余に関白殿下の翻意ば促せちい、そげえに申したつか、小西殿が?」
「いや、そげん申された訳じゃあ、なかです。ただ言葉の端々にそげなお心持ちば、拙者は感じ取りました」
 義調は咄嵯に調信へ顔を向け、質した。
「そいは真か、権之介?」
 調信はしばし逡巡したが、小さくうなずいた。
「そうか、摂津守は朝鮮への攻め入りばあ内心じゃ望んでおらんてか」
 義調は一人ごちた。
「油断めされるなよ、御西殿」
 玄蘇が声をかける。
「なしてな?」
「摂津守は舟奉行の任に就かれとるっち聞き及びます。ほんなら朝鮮に攻め入るにゃ、船ん手配が急務の用件でござりまっしょ。そん手配に時ば要するけん、いま少し時ばかけちことば運びたかっち考えておっとかもしれまっしえん」
 舟奉行とは城を水攻めする際の船の手配、および武将、兵員の海上輸送がその主要任務である。けっして水軍の将という意味ではない。秀吉の有した水軍は織田信長から引き継いだ九鬼嘉隆を将とする紀州の熊野水軍、ならびに毛利輝元の帰順により掌中に収めた瀬戸内の村上水軍が、秀吉の二大兵力であった。
 対馬は水軍こそ有していなかったが、島国であったために独自の造船ならびに操船技術を有していた。だからこそ秀吉靡下においては舟奉行である小西行長へ接触を図るべきだというのが、柳川調信の意見である。玄蘇も調信の意見をしぶしぶながら認めていた。
 義調の脳裏に、玄蘇はよくよく小西摂津守を好ましく思っていないのだなとの思いが掠めたが、
「ほんなら摂津守におすがりする以外に、朝鮮出兵を防ぐ伝手(つて)ば玄蘇殿は持っとっとな?」
 と、玄蘇へ質した。玄蘇は返事に窮して黙する。
 玄蘇の行長に対する反発は行長が耶蘇教に帰依しているからだけではなく、実は彼が堺の出身だからだと義調は考えていた。織田信長へ取り入った堺の茶人、今井宗久は信長より摂津の代官職を任じられ、巨万の財を築いた。信長が本能寺で自害し、秀吉が天下人となったいま、博多商人の間では堺に追い着き、追い越したいとの思いから、秀吉の恩顧を巡って熾烈な進物競争が行われていた。玄蘇は島井宗室の知恵袋を自認している。玄蘇が堺の商家の出身である小西行長を疎んじるのは無理からぬことだと義調は考えていた。義調は玄蘇から視線をそらし、調信へ顔を向け、質した。
「権之介、なして摂津守が朝鮮への攻め入りば内々じゃ望んでおらんっち、そちがそげえに見た、そん訳ば子細に申してみいっ」
「はっ」
 調信はそう応え低頭したが、何も語ろうとしない。
「どげんしたとや。余の言が耳に入らったつか」
「いえ、決してそげんこつは……。ほんなら申し上げます。小西摂津守へそれがしが辞去を告げました際に、こいは書状にゃ記せん内々の御相談じゃっち申されて、……」
 その先を調信が言い澱んだので、義調が促す。
「摂津守が何ち。ええい、勿体ばつくんな。早う、言わんか」
「はっ。……ならば申し上げますが、ばってんこいからそれがしが申し上げますこつは小西摂津守お一人の考えであつて、決してそれがしがそげんされるとがよろしかろうっち考えておる訳じゃなかこつを、島主義智公におかれましては御承知いただきたくお願い申し上げます」
 義智は話の矛先がいきなり自分に向けられたので戸惑い、義調と顔を見合わせたが、おもむろに調信へ顔を向け、
「あい解った。……摂津守が何ち申した。遠慮は要らんけん、有り体に申せ」
 それまで口を開くことなく、静かに成り行きを見守っていた義智が始めて言を発した。
「はっ、ならば申し上げます。摂津守へそれがしが辞去を告げました際に、時に島主の義智公は当年お幾つになられましたやと摂津守がおたずねになられましたんで、それがしが二十歳になられましたと答えましたら、お若い、お若い、義智公が関白殿下にお目通りなされて、対馬の御事情を卒なく上申能うであろうやっち、摂津守は申されまして……」
「なにい、余が若輩やけん、関白殿下へ何も申せんと、小西殿はそげえに申されたつか、権之介」
 義智は思わず声を荒げて、調信へ質した。
「はっ」
 義智の顔色はみるみる怒気を含んで、紅潮する。
 調信は義智を直視することが出来ず、平伏する。
 その調信を見やり、玄蘇が言を投げ捨てた。
「舟奉行風情が無礼千万」
 義智も玄蘇の言に大きく肯んずる。
「されど摂津守の話にはまんだ先がございます」
「構わぬ。小西殿が申されたこつばみな有り体に申せ」
 義智は怒りを抑え、調信へ命じた。
 調信は平伏したまま、義智と眼を合わせずに応える。
「はっ。摂津守が申されますに、対馬を真に治めておられるとは島主の義智公ではなく、後見人の讃岐守だと関白殿下は思し召されておられる。ならば対馬の御事情、ならびに朝鮮出兵の子細を殿下に言上申し上げるのは讃岐守が相応しいのではあるまいか。ばってんか讃岐守は対馬の島主じ.やなかけん、差し障りが有るっちやなかろうかっち」
「僧越至極。対馬の政(まっりごと)まで口出しするとは、小西行長は何様の積もりなあ」
 玄蘇が顔を歪め、吐き捨てた。
 義智は両膝の上に置いた拳を固く握り締めた。
 調信が両者の心中を知ってか知らずか、さらに言を続ける。
「ばってん讃岐守が島主として誠心誠意、関白殿下へ対馬ん御事情ば述べられ、ほいで朝鮮へ攻め入るこつの可否ば言上されればあるいは、……」
「あるいは何な?」
 義調が調信の言を促す。
「そん先はもう何も申されませんでした。ただ後は察せよとばかりに、莞爾(かんじ)と微笑みになられました」
「うむう」
 そう言を発したまま義調は瞑目し、しばし思案に耽った。
……もし関白殿下が発意ば曲げられんと、朝鮮に攻め入るこつになったらこん対馬に陣所が置かるっとは必定たい。島民の徴兵も避けられんめい。うんにゃ、もし朝鮮へ攻め入ってたやすく平定できたらそいで良かばってんか、朝鮮がもし反撃して来たら、どげんなるやろ? 朝鮮が真っ先に攻め込むっとはこん対馬に他ならんたい。そしたら間違いなくこん対馬は戦場と化す。……いやいや、戦(いくさ)の勝ち負けじゃなか。せっかく対馬が朝鮮と積み重ねてきた誼みが、戦になったらすべてが無に帰す。対馬は朝鮮との交易なしにゃ生きちゃ行けん。ほんなら関白にゃ朝鮮出兵ばなんとか思い留まって欲しかあ。……ばってん関白はなして朝鮮まで攻め入ろうっち考えるとやろか?九州ばわがもんにしただけじゃ、なして満足されんっちゃろか?
「権之介」
 義調はくわっと眼を見開き、調信の名を呼んだ。
「はっ」
 調信が平伏したまま応える。
「関白殿下が何ゆえ、朝鮮まで攻め入らんと発意されたつか、そん訳ばそちは薩摩ん陣所で確(しか)と探って来たじゃろうな?」
 と質した。この使命こそが調信に課せられた最重要の用向きであった。
「はっ。摂津守が申されるには、関白殿下は高麗、唐まで武名を轟かせんがために唐入りを果たさんとの発意されたとの由」
「なにい、己の名ば異国まで響き渡さんがために関白殿下は朝鮮への攻め入りば発意されたっち、そげえに摂津守は申されたつか」
「御意」
「摂津守以外はどげんな、他ん者は何ち?」
「皆、異口同音にそげん申します」
 義調は唖然とした。
……わからん。異国へ攻め入ったら、異国の民の怨嵯(えんさ)ん的になっとは必定ばい。名を轟かしたっちゃそりゃ悪名に過ぎんたい。……秀吉は気が狂うたつか。
「朝鮮は異国ばい」
 義調は思わず、漏らした。
「御西殿に申し上げます」
 柚谷康広が口を開く。
「何な?」
「関白殿下は朝鮮を異国ちゃ思うておられんごたるです。朝鮮からん進物ば関白殿下へ献上した際に、対馬は高麗を従えちょるけん、蔵にはかような品が満ち溢れておるじゃろのうっち、関白殿下はそげん申されました」
……何ちや。
 義調は唖然とした。義調が秀吉へ贈った進物は対馬が朝鮮へ朝貢の礼を執り、下賜されたなけなしの品々である。義調は苦衷に顔を歪め、思案した。
……対馬が朝鮮ば従えとっとじゃなか、朝鮮が対馬ば従えとっとばい。そいに唐入りっち呼ぶこつすら信じられん。唐はとうの昔に滅び、今はかの国ば明っち呼びょるとにい、そげなこつも秀吉は知らんとか。
 義調は秀吉の認識の浅さに驚きを禁じ得なかった。
「ばってん摂津守が関白殿下へ、高麗は異国じゃけん攻め入るっとは難しかろうっち、進言なされました」
 思案を続ける義調の耳に、康広の言が届いた。
「そいで関白殿下は何ち?」
義調は思わず、身を乗り出した。
「はっ。ほしたらそいが首尾よくことが運ぶごつ按配すっとがそちの役目じゃなかかって、摂津守ばたいそう御叱責になられました」
……摂津守はなして内々では朝鮮出兵ば望まんとやろか。
 思案を続ける義調へ、平伏したままの調信が顔を挙げて言を発する。
「御西殿に重ねて申し上げます」
「構わん、申せ」
「はっ。御西殿が島主へ返り咲くのがよろしかろうって摂津守が申されたつは、御西殿に関白殿下の朝鮮攻め入りば諌言して頂きたかっち望まれてんこっかと愚考いたします」
 一座を重い沈黙が再び支配した。
 義調は再び沈思黙考する。一同は固唾を飲んで義調が口を開くのを待った。
 しばし瞑目の後、義調はやおら目を見開き、顔を玄蘇へ向けた。
「玄蘇殿」
「はっ」
「貴殿のお考えば、お聞かせいただきたい」
 この問いに玄蘇はしばし黙したが、おもむろに口を開き、語り始めた。
「はっ。拙僧が思うとにゃ、……関白殿下は御歳五十一を数えられるっち聞き及びます。御西殿は当年五十六を数えられます。ならば.二十歳になられます義智公より、御西殿の言に関白殿下はお耳ばあ………」
「無礼であるぞ、玄蘇」
 義智が思わず声を荒げて、玄蘇の言を遮った。玄蘇は平伏する。
「お許しくだされ。……なれど朝鮮への攻め入りはこん対馬にとっちゃ国家危急の大問題。小西摂津守ごとき小童(こわっぱ)の言に従うとは小癩ばってん、こいを回避するにゃ、あるいはそげんすっとが最善じゃなかかっち愚考いたします」
「あい解った」
 義調が間髪を入れずに応じたが、再び眼を閉じ、黙考した。
……関白殿下に朝鮮出兵ば諌言したら、殿下の怒りば買うとは必定たい。ほしたら腹ばかっ斬ってお詫びせにゃならんめい。儂ん首ば差し出して殿下が心変わりされるっとならそいでよかばってんが、こん首ひとつくらいで殿下が翻意されるちゃ、到底思えん。……そいに儂が死んだらこん対馬はどげんなるやろ。義智がうまく治めていっきるやろか。……平時じゃなか。朝鮮攻め入りの非常時ば義智は乗り切れるやろか。……ばってんか首ば差し出すにせよ、出さんにせよ、関白に物申すに島主でなくんば都合ん悪かろう。
 義調は再び眼を見開くや、顔を義智へ向けた。
「義智」
「はっ」
「貴公ば余の嗣子としたい」
 嗣子とは跡継ぎ息子のことである。
「なってくれるか?」
 義調に子は無く、義智の父である将盛は既に他界している。
 義智としては拒む理由は何もない。義智は黙して顎を引いた。
「ほいで余は再び島主の位に就く。……対馬存亡の秋(とき)なり。……解ってくれるな、義智」
義智は唇を噛んだまましばし黙したが、おもむろに首を振り、玄蘇・調信・康広の三者の表情を伺った。
 三者とも承知されたしと、眼で合図を送っているのを義智は切々と感じた。義智の心中に、玄蘇は義調の懐刀、調信は子飼い、また康広は義調と数歳しか離れていないせいか、義調を主君というより兄のごとく慕っている。いずれも己の意に沿って動く人物ではない。
 それに自らが島主の座を降りても、島主然として振る舞っている義調の下で働く現状が何ら変わることはないのだという思いがよぎり、義智は小さく顎を引いた。
 義調は康広・調信の両名に向き直るや、音声を発する。
「柚谷康広、柳川調信の両名に申し渡す。今日これより余は再び島主の位に就く。配下の者にも、そう申し渡せ」
「は、ははあっ」
 両名は深々と平伏した。
 その両名を見やりながら義智は心中に、まだ会ったことのない小西摂津守行長という男の手に、自らの運命が委ねられて行くのをひしひしと感じ、知れず顔を歪めた。
 その義智の耳朶(じだ)に、
「賭けてみっか、舟奉行にい」
 と、誰に言うでもなく眩いた義調の言が届いた。

           二、
 同年六月十四日、博多の上浜口町に築かれた島井宗室の屋敷に投宿していた宗義調・義智の両名は、筥崎宮燈籠堂で千利休を亭主として催され茶会から、主の宗室が帰宅するのを待っていた。
 利休は同じく堺の茶人である津田宗及と共に秀吉の九州動座へ供奉(ぐぶ)を命じられ、博多の地にあった。それは秀吉が茶の湯を好むという単なる理由からではなく、豊後の大友宗麟と肥前の龍造寺隆信の十年以上におよぶ争いにより焦辻と化した博多復興のために、堺の会合衆(えごうしゅう)から博多の町衆へ助言を与えよという秀吉の意を含んでのことであった。会合衆とは合議制により堺の自治を運営していた町衆を云うが、それに相当する組織を博多でも作らせたいという秀吉の意向により、博多町衆の頭(かしら)を務める島井宗室とその補佐を務める柴田宗仁、ならびに博多のもう一人の豪商、神屋宗湛が秀吉の相伴衆(しょうばんしゅう)として今日の茶会に招かれていた。
 この頃、島井宗室は焦っていた。それは博多荒廃により居を唐津へ移していた神屋宗湛が四月に薩摩出水(いずみ)の秀吉御座所まで伺候(しこう)し、秀吉から博多復興の下知(げち)を下されていたからである。神屋宗湛は祖父の寿禎(じゅてい)が石見銀山の開発で財を成した家系に属するが、機を見るに敏な彼の秀吉への接触は宗室より先んじ、正月には大坂城で催された茶会において「筑紫の坊主に飯を食わせよ」と、秀吉から直接に言を賜ったと自慢気に吹聴している。なお宗室も宗湛も剃髪はしているが出家はしていない。それは仏教への信仰心からではなく、茶坊主として時の権力者へ阿(おもね)るためであった。
 歳は宗室が四十九、宗湛が三十七と、宗室が一回り上であり、かつ宗室は初代だか宗湛は三代目であるという立場の違いが、宗室の宗湛への対抗心をよりかき立てていた。
 また宗室は大友宗麟へ珍貴な茶器を贈り、その庇護により財を成していた。しかしながら宗室が庇護を求めていた大友宗麟が先月二十三日に病死したという報せに宗室は接していただけに、彼も新しい庇護者を見出す必要に迫られていた。宗室が照準を絞った権力者が言うまでもなく天下人(てんがびと)たる秀吉である。
 宗室はかつて織田信長に接触し、かつ本能寺においては信長と同宿していたが、いち早く謀叛を察知し、虎口を脱した経験を有する。それだけに当初から秀吉へ接触を図っていた宗湛へは水を開けられた形になっていた。だがその秀吉がいまこの博多の地、箱崎に陣を構えているのである。挽回する千載一遇の好機到来とばかりに宗室は東奔西走していた。
 秀吉は柳川調信・柚谷康広の両名に拝謁を許した四日後の先月八日、島津義久が和議を申し入れて来たために薩摩・大隅・ならびに日向諸県(もろがた)郡を島津所領と安堵し、同月十八日より川内から帰還の途につき、今月七日より筥崎宮へ御座所を構えていた。秀吉は筥崎宮において供奉して来た諸将への論功行賞を行ったが、筑前の地は故毛利元就の三男である小早川隆景へ現在の伊予三十五石に加えて封ずると命じた。これは中国地方の最大大名である毛利家の勢力分散と、小早川隆景が瀬戸内の水軍を従えていたため、将来の朝鮮出兵を睨んでの布石であった。隆景は筑前加封を免れようと秀吉へ懇願したが、秀吉は聞き入れなかった。
 また博多を朝鮮出兵の兵姑基地、ならびに行く行くは堺に代わる明国、南蛮船の就航地にしたいと考えた秀吉は十日、博多湾内を宗湛を伴って海上より視察したが、沖合に南蛮船フスタ号が停泊しているのを望見するやこれに乗船し、船内をくまなく検分した。検分の際に秀吉を応対したのがイエズス会初代日本準管区長コエリョである。
 そして翌十一日には秀吉は小西行長・石田三成らを町割奉行に任じ、かっ宗室・宗湛の両名へ博多町割のための指図(さしず:都市計画設計図)を至急作製して奉行へ差し出すよう指示し、また博多にも楽市・楽座を開くよう命じた。博多の櫛田神社にはこの際に秀吉が下したとされる定書(さだめがき)が今も残されているが、その筆頭には「一、当津にをゐて諸問・諸座一切有るべからずこと」と記されている。津は船着き場と同義。博多は港街であったために当時は博多津と呼ばれることが多かった。また問は問丸(倉庫および港湾運送業者)の略、座は特権を認められた商工業、陸運業者のことである。
 以上のような理由により宗室は多忙を極め、宗義調・義智の両名を自宅に泊め置きながら、いわばまったくのほったらかしの状態に捨て置いていた。義調は宗室へ、秀吉への拝謁ならびに行長への仲介を依頼していたが、それは今日に至るまでそのいずれもが実現していなかった。

「お客人が来とらすごたるばい」
 島井家の者が義調・義智の居室へ、縁側から声をかけた。
「客人?」
 義調は首を捻り、義智と顔を見合わせた。両名が島井宅へ投宿していることを知る者は少ない。義調は客人の見当がつかず、いま一度、首を捻った。
 両名は宗室から関白拝謁の段取りが整ったといつ呼び出しがかかるかも知れぬので外出もままならず、待機を余儀なくされていたが、時を無駄に過ごすまいと関白拝謁の予行演習に明け暮れていた。義調が秀吉を演じ、義智へ義調の役を演じさせていた。それは義智の言上を通して秀吉を翻意させる糸口を探りたいという思いの他に、自らが首を秀吉へ差し出せば、非常時の対馬を義智が治めて行かねばならぬ、そのために少しでも義智に経験を積ませたいという義調の思いからであった。しかしながら口舌の拙い義智はあれこれ弁を立てても秀吉役の義調を一向に翻意させることが出来ず、両名の苛立ちは頂点に達しつつある矢先であった。
 宗室は両名へ、関白殿下が朝鮮出兵を望むのは、国内を平定し終えたならば靡下の武将へ封ずる領地が失せる。故に右府殿(織田信長を指す)のごとく謀叛の刃が自らに向けられず、かつ自らの権勢を保つためには、常に領地の拡張を企てねばならないと関白が考えられたことが朝鮮出兵を発意した真の理由であると、自らの見解を示していた。 
 だから両名は対馬のためではなく、秀吉のために朝鮮出兵の不利を諌言する必要に迫られていたが、両名は秀吉を納得させるだけの論理的な理由を見出せずにいた。
「誰なあ?」
 義調が問う。
「はい。讃岐守さまへ、小西摂津守さまからお使いの方が、……」
 義調と義智はあわてて居住まいを正した。
「すぐこちらへお通し願いたい」
 そう言うや義調は襟元を正し、背筋を伸ばした。義智もそれに倣う。
 しばしの後、家人が客人を伴って現れた。
「こちらでござります」
 義調・義智の両名は入室して来た使者へ眼をやり、思わずぽかんとした。行長の使者は歳の頃まだ十二、三ほどの姫だったからである。
 姫は座するや三つ指を付き、さっそく言上を始めた。
「小西摂津守行長が娘にして、名をマリアと申します。父の使いで参りました」
 義調はすかさず低頭し、言上を返す。
「わざわざのお運び、誠に恐れ入ります。それがしは対馬島主宗讃岐守義調と申し、隣に座するは嗣子の義智でござります。……これ、義智」
 マリアをぽかんと見つめていた義智は、義調に促されてあわてて低頭した。
 しかしながら義調も義智もその心中に摂津守の娘が何用で、という思いを拭いきれなかった。その両名の思いを見透かしたようにマリアが言を発する。鈴を転がすような澄み切った声である。
「父よりお詫びへお伺いするよう命じられました」
「お詫び?」
 義調が顔を挙げて問う。
「はい。島井さまから幾度もお会いしたいとのお申し出を受けておりましたが、万障繰り合わせることが出来ず、お目文字が叶わぬ、ゆえにおまえが出向いてお詫びを申し上げて参れと」
「それは何とも御丁寧なこと。恐れ入ります」
 義調はまじまじとマリアの顔を見つめた。
 背は四尺足らずのきゃしゃな体付きだか、きゅっと結んだ口もとや、たじろぐことなくこちらを見据える視線に、義調は彼女の秘められた意思の強さを感じた。その義調の視線がマリアの胸に下げられたロザリオに注がれた。
「姫は耶蘇教を奉じておられるとですか」
 当時のキリスト教を外部の者は耶蘇教と呼んだ。耶蘇とはイエス・キリストのイエスの日本語訳である。仏教を釈迦教とは呼ばないように、耶蘇教という呼称には、なにもよりによって南蛮渡来の邪宗を信じることもあるまいにという、侮蔑的な意味合いが含まれていた。故に当節のキリシタンは自らの信仰を天主教と呼んでいた。キリスト教を耶蘇教と呼んだのは、仏門など、この信仰の流布を快く思っていない人々である。だがそのことを義調は知らない。マリアは耶蘇教と呼ばれてもいささかもたじろかず、
「はい。天主ゼウスさまのお導きに身を委ねております」
 と、凛として答えた。
 ゼウスと言われても義調には誰のことか解らない。義調のキリシタンに対する知識はいたって浅く、宗室が庇護を求めていた大友宗麟がキリスト教への帰依を明言していたので、宗室よりわずかばかり聞きかじった程度であった。それに、南蛮船に乗って渡来した宣教師がこぞって領主へ庇護を求め、大友宗麟以外に肥前の大村純忠や、有馬晴信といった大名が信奉していたことや、秀吉幕下の武将にも小西行長以外に何人かの信者がいることは知っていたが、その教義については無知に近かった。他に十字架の首飾りを好んで掛ける点や、神の名をどうやらキリシトと呼ぶらしいと、その程度の知識であった。義智にしても同様である。南蛮からの風は対馬まではまったく届いていなかった。
「マリアさまというお名前は、……」
 義調が恐る恐る問う。
「はい。京の南蛮寺におきましてパードレのウァリニャーノさまのお導きにより洗礼を受けました際に、パードレから頂戴したお名でございます」
 義調・義智ともきょとんとしている。ここに至ってマリアは両名が天主教について無知に近いことを悟り、説明を始めた。
「パードレとは南蛮からお越しになられた宣教師のことで、伴天連とも申します。ウァリニャーノさまはその宣教師の中で一番お偉い方です。でもウァリニャーノさまは五年前に少年使節を伴って南蛮へお戻りになられましたので、今は博多津に来られているコエリョさまが宣教師をまとめておいでになります」
 義調・義智はますますわからない。博多津に南蛮船が到来したことは島井家の使用人の噂で知っていたが、少年使節とは何のことかわからない。
 少年使節とはウァリニャーノの進言を容れ、大友宗麟・大村純忠・有馬晴信の三人のキリシタン大名がローマ教皇へ謁見すべく名代として派遣した四人の少年遣欧使節だが、義調の関心は朝鮮または博多商人、あるいは上方へ向けられていたので、九州の諸大名の動向については疎かった。
義調の半生は島内諸族や壱岐との抗争と宥和、および倭冠の取締りと朝鮮への情報提供、ならびにその対価としての歳遣貿易に費やされていたため、九州に関する情報は島井宗室・僧玄蘇・柳川調信の三者から提供を受けるに留まっていた。ただ壱岐・松浦・五島については対馬と同じく倭冠の根拠地と目されていたために、そこそこの事情に通じていたが、その他の九州の諸大名については領主の名を聞き知っている程度であった。
 マリアが首を傾げたままの両名を気にも留めず、語り続ける。
「マリアという名は主キリシトさまの御生母の名でござります。小西家は、父がアゴスティーニュ、母がジュスタ、祖父がジアチンと、みな有難い受洗名を頂戴しております」
 マリアは得意気である。
 だがそのマリアを見やり、義調の心中に、行長は我らをキリシタンに勧誘するために娘を差し向けたのかという疑念が湧いた。
……この姫、いまから耶蘇教についての説教をおっ始める気じゃなかんめいな。こっちはいま、そいどころじゃなかとよ。
 義調はまだ何か言いたそうなマリアに向かって、
「時に姫は御父上と当地へおいでになられたのかな?」
 と、話題を変えた。
「えっ。いえ、……こちらへは宗易さまと参りました」
マリアは動揺を隠せず、答える。
 宗易とは千利休の名である。号である利休の方が流布していた。
「宗易さまはお歳(当年六十六)だから、当地までのお世話をするようにとの、父の申し付けでこちらへ参りました。でも宗易さまは妾(わたし)にちっとも世話を申し付けになりませぬので、妾はするごとがありませぬ」
 そう言うやマリアは頬を膨らませ、唇を尖らせた。
……まんだ子供たい。しつかりしとるごつ見ゆるばってん。
 義調の心中に安堵の思いが拡がる。
 義調はマリアにさらに何か問おうと考えたが、歳の頃十二、三の姫に何を訊けばよいか解らず、戸惑う。
 マリアもキリシタンの話は二人があまり関心が無いのを察し、何か別の話題をと考えていたが、同じく何の話を切り出せばよいか解らず、戸惑った。
 しばし三者沈黙の時間が流れる。
 その沈黙をマリアのぽつりと漏らした一言が破った。
「対馬は遠いんでしょうね」.
 この問いにそれまで口を開かなかった義智がすぐさま応えた。
「いいえ、近うございまず。この博多津から関船で一日の距離です。潮や風の向きが適(かな)えば、半日で着くこともあります」
 義調は首を捻った。博多津を朝発って夕べに府中に着くのは真夏のよほど潮や風に恵まれた場合で、半日で着くことなど決してない。まず一日目は壱岐の勝本で停泊し、二日目に府中に着くというのが常だったからである。
 マリアは始めて口を開いた義智を正視するのが恥ずかしいのか、顔を伏せがちに、
「どんな処です、対馬は?」
 と、か細い声で尋ねた。義智がすかさず答える。
「対馬は佳か処です。山は高く、海は深うございますから、山の幸、海の幸に恵まれ、また人も純朴で、人の財を掠める者などおりませぬ」
 義調はまたも首を捻った。義智が対馬を佳い処だなどと言うのを初めて聞いたからである。
……人の財を掠める者はおらんちや。徒党を組んでわざわざ朝鮮まで漕ぎ出し、村々を荒らすことば生業とする者も対馬にはいくらでもおるやんか。さては義智、……色気づいたばい。
 義調はほくそ笑みたくなる思いを、懸命にこらえた。

 その日の夕刻。
 マリアが辞去を告げてから二刻ほど経って、主の宗室が珍しく陽の高いうちに帰宅した。
 宗室は帰宅するやすぐさま義調の居室を訪れ、関白殿下が明朝一番に、お二人にお目通りなされるとのお言葉を賜ったと、両名に告げた。
 三者はしばし明日の段取りについて打合せたが、ほぼ協議を終えたところで義智が、時に今日、摂津守の御息女が見えられましたと宗室へ告げた。
 宗室が首を傾げ、何の用でと問うたので、義智がかくかくしかじかな訳で、と答えた。
 宗室はまだ腕に落ちずいたが、義智が上機嫌でマリアのことを話すのを見て、
……小西殿はもしかしたら義智公へ御息女を娶らせようと、……
 との思いが脳裏を掠めたが、そのことについてはそれ以上、言及しなかった。
 義智は宗室へさらに、ところで少年使節とは何のことか御存知ですか、と問うた。
 義調はマリアの言ったことなら何でも知りたがっている義智を見て、今度は遠慮なくほくそ笑んだ。
 宗室は、はい、存じております。少年使節とは大友宗麟さまをはじめとする九州のキリシタン大名が云々と、義智へ説明した。
 その両名の様子を見ていた義調が閃くものを感じ、突然、大声を発した。
「そうたい。使節たい、使節。朝鮮から使節ば招聘して関白殿下に拝謁させる。そしたら殿下も翻意ばされるかもしれん」
「招(よ)べますかな、使節が」
 宗室がすかさず義調へ問う。
「招ぶ。うんにゃ、招ばにゃならん。……そいしかなか、時ば稼ぐっとは」
 そう言い終えるや義調は唇をきゅっと結び、小さくうなずいた。

 翌十五日、朝謁の中、筥崎宮拝殿へ続く石畳を、宗室を先導に歩いて来た義調・義智は、拝殿の前で腕を組み、仁王立ちに立ってこちらを見ている人物を認めて、足を止めた。
 宗室が両名に振り向き、小西摂津守さまですと、小声で知らせた。
 義調は行長へ軽く目礼したが、その目礼に行長も目礼で応じた。
 義調は自らが近寄るべきか、向こうが来るのを待つべきか迷ったが、後者を選択し、その場を動こうとはしなかった。
 しびれを切らした行長が大股で近寄って来て、音声を発した。
「対馬島主宗讃岐守義調殿とお見受けしたが、相違あるまいか」
「いかにも」
 義調が鷹揚に肯んずる。
「それがしは豊臣家家臣、小西摂津守行長でござる。先日は過分のお心づかい、痛み入ります」
「なんの。あれしきの品しかご用意できず。お恥ずかしい限りでござる」
 そう言うや義調はまじまじと行長の顔を見つめた。
……武人らしくなか顔たい。
行長の面長で、額が広く、かつ細く切れ長の目を直視した義調はまずそう思った。
 行長は義調の顎が突き出し、薄い唇に眼をやるや、
……癇(かん)の強そうな御仁(ごじん)だ、と感じた。
 義調を凝視したままの行長へ、義智が言を発した。
「それがしは義調が嗣子、義智でござる」
 行長はおもむろに義智へ顔を向け、自らの名を名乗った。
……透き通ったいい眼をしてる。この男、ものになるかもしれぬ。
 との思いが行長の心中をよぎった。
 三者とも昨日のマリアの訪問については一言も触れない。
 行長が義調に向き直り、語り出した。
「関白殿下御拝謁の前にお知らせしたき儀これ有り、お待ち申しておりました」
「御高配いただき恭悦至極に存じます。……してその儀とは?」
 義調が言を促す。行長は滔々と語り出す。
「関白殿下は本日の御拝謁に細川丹後守藤孝さまを御陪席なされます。細川さまは殿下へ和歌の指南をされておられます。殿下はここ数年、和歌に目覚められ、和歌を詠まれる方を重んじられますので、本日の御拝謁でも讃岐守さまに和歌を詠めと命じられるかもしれませぬ。その心積もりでいただきたく、前もってお知らせいたします」
 細川丹後守藤孝は号を幽斎と称し、丹後宮津の城主である。当代きっての和歌の詠み人として知られていた。歳は秀吉より三歳上、義調より二歳下の五十四である。
「それは貴重な御助言、誠に恐れ入ります」
 義調は軽く頭を下げた。
「讃岐守さまはお歌の方は、……?」
 行長が不安気に問う。
「我流ながら、いささか心得があります」
 行長は安堵の表情を明瞭に浮かべる。その行長を見やり、
……悪か男じゃなかごたる、との思いが義調の胸に拡がった。
 義調は家督を譲った際に閑斎一鴎、あるいは一鴎斎と号し、朝鮮や博多で収集した歌集の写しを基に「和漢朗詠集」と題した自選集を作り、それを教則本として独学で歌を詠んでいた。閑斎一鴎とは閑居した一羽のかもめのような男、という意味である。
 行長はさらに言を続ける。
「さらにいま一つ、讃岐さまに申し上げたき儀がござります。……関白殿下は御機嫌麗(うるわ)しゅうされておられても何かのはずみで御機嫌をにわかに変じられ、腹を斬れなどと命じられることがござります。その際はそれがしが何としてでもお取りなし致しますので、讃岐守さまにおかれましては、けっして御短慮に腹を斬るなどと申されぬよう、切にお願い申し上げます」
……此奴(こやつ)、儂が腹ば斬る気でおっとを、見抜いちょっとか。
 義調の眼に驚愕の色が拡がる。
「よろしゅうございますかな?」
 行長が念を押す。義調は黙して肯んずる。
 それから行長は顔を宗室へ向けた。
「島井さま、今日ここでそれがしが讃岐守さまにお会いしましたことは、何とぞ御内密に願いたい」
「承知いたしました」
「しからば、御免仕る」
 行長は義調に一礼し踵(きびす)を返すや、玉砂利の上を飄々と去って行った。
 その後ろ姿を見やりながら義調は脳裏に、摂津守は朝鮮出兵を内心では望んでいないと報じた柳川調信の言が掠めた。

 筥崎宮拝殿奥の板問に案内された三名は、秀吉が朝餉を済ませて現れるのを待っていた。
 中央に義調、その半間後方の左隣に義智、右隣に宗室が座していたが、三名のさらに後方では右筆が一心に墨をすっていた。また義調の一間ほど前方には大振りの床机(しょうぎ)がぽつねんと置かれていたが、その奥には八幡大菩薩の神殿が奉られていた。
 三名とも眼を閉じたまま瞑想に耽っていた。誰も緊張の面持ちは隠せない。
 その時の室の外から、
「関白殿下の、おなあ~りい」
 と、歌うがごとく告げる小姓の声が室内に響き渡り、ややあって板戸ががらりと音を立てて開いた。
 三名ならびに右筆がすぐさま平伏する。
 秀吉は室に入らず、しばし皆を見下ろしていたが、おもむろに中央に進み寄り、床机の上にどっかと腰を下ろした。そしてまず、まだ入り口に立ちっくしたままの二人の武将へ向かい、
「丹後守は奥へ、摂津はそこへ」
 と、顎を振って、座る位置を示した。
 二人の武将が着座し、平伏するのを見計らって、秀吉が音声を発する。
「皆の者、面(おもて)を挙げいっ」
「ははあっっ」
 皆が声をそろえて、一斉に顔を挙げる。
 義調の眼に赤地錦(あかじにしき)に金色をあしらった肩衣袴(かたぎぬばかま)をまとい、黒地の細縷冠(ほそいかむり)を戴いた秀吉の姿が映ったが、顔を直視することができず、床に視線を落とした。
「苦しゅうない、面を挙げいっ」
 秀吉がいま一度そう命じたため、義調はしっかと顔を挙げ、今度はまじまじと秀吉の顔を凝視した。
……こいが天下人ん顔か。そんにしては随分、赤茶けた顔ば、……
 との思いが心中をよぎったが、そのことはいささかも顔に出さず、さっそく言上を始める。
「関白殿下の御尊顔を拝し奉り、恭悦至極に存じます。それがしは対馬島主宗讃岐守義調と申し、左に座しますのは嗣子の義智でござります。関白殿下におかれましては、以降よろしくお引き立て頂きたく、伏して御願い申し上げ奉ります」
 そう言うや、再び深々と平伏した。義智がそれに倣った。
「大儀」
 短く言を発した秀吉は顔を左右に振り、細川、小西の両名に名乗りをするように促した。幽斎が名乗る、義調がそれに応えて名乗る、行長が名乗る、義調が同じく応えて名乗るの順で、名乗りが行われた。行長も義調も先ほど会ったことはおくびにも出さない。
 名乗りが一巡したのを見計らって、秀吉が宗室へ声をかけた。
「宗室、飯は食うたか」
「はっ、頂戴仕りました」
 宗室が畏まって返答する。
「うん、皆もそうか?」
 秀吉が皆を見渡して問う。誰も朝餉を摂っていなかったが、皆は黙して肯んずる。
「うん、ならば話を始めよかいの」
 秀吉は一転にわかに顔をこわ張らせ、義調の名を呼んだ。
「宗讃岐守」
「はっ」
「先日の進物、ならびに早速馳せ参じたるは誠に殊勝。よってぬしを対馬守に任じたろと思うておったが、ぬしはすでに讃岐守なるゆえ、ぬしの嗣子たる義智を対馬守に任ずる。対州一国を宛てがってやるゆえ、儂のために一層の忠勤を抽きんじよ」
「は、ははあっ。勿体なきお言葉。宗家末代までの誇りとしとうございます」
 義調・義智は大仰に平伏したが、義智はその心中に、宛てがってもらわずとも対馬は我ら宗家が治めているわいとの思いがこみ上げてきたが、懸命にその思いを抑えた。
 秀吉はちらりと義智を見やったが、視線を義調へ向け、質した。
「讃岐、ぬしは高麗入りのことは承知しておろうな」
「はっ、伺っております」
「ぬしは儂の高麗入りのためにあんじょう働けよ。よお忠勤を示したならば、高麗一国を宗家にくれてやるぞ」
「その件につきまして関白殿下に歌を献上し、殿下のお耳を汚させて頂きとう存じます」
「ほお、ぬしは歌を詠むのか」
「鄙人(ひなびと)の手慰みでござります」
「一興じゃ、披露いたせ」
「はっ」
 そう言ったまま義調はしばし黙したがおもむろに顔を挙げ、背筋を伸ばし、
「古(いにしえ)はここに礒地の跡とめて、今は踏み見るたたら濱かな」
 と、声高らかに二度、吟じた。
 この歌の礒地は五十路に通じ、たたら濱はたたらを踏む(勢い込んでやったのに、ねらいが外れて力が余り、よろけること)という慣用旬にかけてある。っまり、人間五十の寿命じゃないですか、五十を過ぎたのにたたらを踏むような愚かな真似はお互いやめましょうという忠告が、この歌には込められていた。なおたたらは漢字では蹈鞴と書き、製鉄の際に火力を増すため、足で踏んで風を送る鞴(ふいご)のことである。
 また博多湾の浜辺は、多々良浜と当時は呼ばれていた。
 義調の歌を耳にした秀吉が首を傾げる。
 しばし黙考し、礒地が五十路に通じることに気づいた秀吉が義調に問う。
「讃岐、ぬしは何ぞ腹に一物ありそうじゃな?」
「御意」
「構わぬ、申してみよ」
 義調はきっと秀吉を見据えるや、先ほどと同じく吟じるがごとく語り出した。
「我おもへらく。朝鮮国なんぞ殿下の命に背(そむ)くことあらんや。義なくしてこれを攻めるは民心の殿下より離れる因(もと)なり。而して朝鮮は国小にして民弱ければ、これを攻めるは易し。然れども朝鮮の後背には大明国有りせば、大明国これを看過せず、本朝を朝鮮より除かんと兵を進むるは必定。蓋(けだ)し朝鮮へ兵を進むるは大明国を討つの心得あって然るべし。我鑑(かんが)みるに大明国と干戎(かんか)を交えて本朝に何の益あらんや。冀(こいねが)はくは兵を発すること勿かれ。……関白殿下におかれましては、いま一度の御再考を、切に切に御願い申し上げ奉ります」
 義調はそう言い終えるや、深く深く平伏した。義智もあわてそれに倣った。
 秀吉は義調が突然、漢文調で語り出したので当初は戸惑ったが、義調の言半ばにしてその言わんとする処を解するや、顔はみるみると紅潮し、唇はわなわなと震え出した。
 誰も秀吉を直視できない。
「蹴散らしてくれるわっ、大明国なんぞ。……讃岐、面を挙げい」
 義調は顔を挙げ、秀吉を見据えた。
「讃岐。儂にそこまで物申すからには、覚悟は出来ておろうな。腹をかっ斬るか、讃岐」
「お望みとあれば」
 義調は穏やかに答える。行長は硬直する。
……いかん、いかん、だから前もってあれほど言うたじゃないか。
……貴殿が死んで、対馬の何の益になる?
 行長はどう言って秀吉の怒りを鎮めようかと、言葉を探しあぐねた。
 秀吉は脇差に手をかけ、義調を打鄭(ちょうちゃく)せんと腰を浮かせる。
「よお言うた。ならば望み通り、この場で儂が成敗してくれる」
その機先を制すべく、義調が亀のごとく首をぬっと突き出す。
「それがしの首一つで殿下が御翻意されるのなら、それがしは喜んで殿下へ首を差し上げる所存です」
 義調は秀吉を気圧(けお)さんばかりに迫った。
 誰も口が利けず、室内を緊張が走る。
……猪口才(ちょこざい)な真似をしくさって。
 秀吉は手にした脇差を握りしめる。
 その時、幽斎が床に顔をつけんばかりに低頭し、言を発した。
「関白殿下に申し上げます」
「な、何じゃ、丹後守」
「先ほど、讃岐守は殿下へ歌を献上なされました。借越ながらそれがしは殿下に成り代わりまして、殿下が讃岐守を御成敗される前に、讃岐守へ歌を返させて頂きたいと存じます」
「冥土の土産にか?……許す。披露いたせ」
 秀吉が脇差の柄に手をかけたまま命ずる。
 幽斎は顔を上げ、背筋を伸ばし、
「敷島(しきしま)の道すなおなる御代(みよ)にあひて、恵み久しき筥崎の松」
と、義調に負けんばかりに、声高く二度吟じた。
 この歌の敷島の道は和歌の道を云う。敷島は大和の枕詞である。すなわちこの歌は、和歌に心得のある御代(秀吉の治世を指す)になったので、筥崎の松(博多の民の比喩)は長く恩恵を蒙(こうむ)ることになる、感謝しろよという内容の、秀吉の九州動座を寿(ことほ)ぐ追従の歌である。
しかしそれは表面的な解釈であって、この歌が義調への返歌である点と、松は礒地に生える点から考えて、筥崎の松は五十路の義調の比喩だと考えられる。すると幽斎のこの歌は、殿下は温情を義調に与え、歌に秀でた教養ある義調の首を、松を切るがごとくむざむざ刎ねないでほしいという意が込められた、助命嘆願の歌だと解釈すべきだろう。
……幽斎、此奴を赦(ゆる)せと言うのか。
 幽斎の歌の意を解した秀吉が思考を開始する。
……此奴、儂が翻意するならば首を差し出すと抜かしおった。儂は翻意なぞせぬ。……此奴の首をかっ斬り、宗家より対馬を召し上げるは容易いが、さすれば対馬の民は濃にはなつくまい。対馬には高麗入りの出城を造らねばならぬ。……それに、宗讃岐守義調、この男、捨てるには惜しい。……さらに此奴を赦さねば、歌の意を解せなんだのかと、幽斎に虚仮(こけ)にされる。はたまた摂津、おまけに口の軽い宗室まで儂を見てる。ここは度量の寛(ひろ)いところを見せるに如(し)かず、……だな。
 秀吉の生殺与奪の基準はきわめて明快である。利用価値の有る人間は生かす。利用価値のなくなった人間は捨てる。ただそれだけである。秀吉は感情だけで関白まで昇り詰めた男ではない。
 秀吉は腰を床机に沈め、脇差から手を離し、磊落(らいらく)を装って哄笑を始めた。
「かっかっかっ。……要らぬわっ、讃岐、ぬしの首なんぞ。……ぬしの無礼、丹後守に免じて赦してやる」
 幽斎をはじめ室内の誰もが安堵の表情を浮かべた。
 義調は突き出した顔を幽斎へ向け、軽く目礼した。
 幽斎はそれに対し、同じく目礼して応えた。
……ぬしらだけが歌の意を解したでも思うたか。
 義調の泰然とした態度が秀吉の新たな怒りを誘った。
「礒地の松、宗讃岐守よ」
 秀吉は自らの思いを抑えて、義調へ声をかけた。
「……はっ」
 秀吉は視線を義調から幽斎を向け、小鼻をひくつかせた。
 幽斎が目許に笑みを浮かべ、小さくうなずいて秀吉へ応える。
 それを見た秀吉の胸中に愉悦が広がったが、それでも満座の中で義調になんとか恥だけはかかせたいと思いを巡らせた秀吉は、顔を殊更にこわ張らせて義調へ向け、
「讃岐。ぬしは豪胆な男と見たが、なれど儂にそこまで楯突くからには、ぬしには何ぞ、儂の意を満たす妙案があろうな。……ぬしの返答次第では、今度こそ容赦はせぬ」
 と言い放ち、炯々(けいけい)と義調を見据えた。
「いささか、それがしに考えがござります」
 義調は首を元の位置に戻し、顔を挙げて凛とした声で答える。
「申してみいっ」
「はっ、おそれながら関白殿下へ言上申し上げます。関白殿下の御威光は日下(ひのもと)まで達し、津々浦々まで遍(あまね)く殿下の御恩顧に慶(よろこ)びを見出さぬ者は一人とておらぬと聞き及びます。しかしながら朝鮮国は関白殿下が本朝を平定されたのをいまだ知らず、故に祝賀の通信使(信義を通じる使節の略)を今日に至るも、送って参りませぬ。因って朝鮮攻め入り云々につきましては、朝鮮からの通信使の来朝を待って御決断されても決して遅くはなかろうかと愚考いたします。もし朝鮮国が通信使を遣さぬ、あるいは来朝した使節が関白殿下に無礼を働きましたら、その時はそれを、朝鮮出兵の大義名分に立てればよろしかろうかと愚考いたします」
 日下とは当時の日本の東端の呼称であるが、実はこの段階ではまだ秀吉の全国統一は完了していない。関東の北条氏も陸奥の伊達氏も秀吉へ服していなかった。しかし義調がそう述べたのは、秀吉が義調へ送った昨年六月の朱印状へそう記されていたからである。これは対馬を臣服させるための、秀吉のいわばハッタリなのだが、義調はそれを逆手にとった。秀吉が、いやまだ日下までは平定していないとけっして言うはずはないと、見切っての言である。
 とは言え、義調は朝鮮から通信使を招贈するくらいで、秀吉が翻意するとは毛頭考えていない。ただ少しでも出兵を先伸ばしすることができれば、何が起こるかわからぬ戦国のこの御時世だけに、秀吉が死ぬか、何らかの突発事項によって朝鮮出兵が中止になるかもしれぬ。それを期待して、一日でも時を稼ぎたいと考えてのことであった。
 ところで朝鮮通信使だが、これは永亨元年(一四二九)、室町幕府六代将軍足利義教の将軍就任時に、幕府へ倭寇の禁圧を申し入れるために日本を訪問したのが始まりである。以降、正長元年(一四三九)、嘉吉三年(一四四三)と室町期に計三回、日本へ派遣されたが、室町幕府の衰退により朝鮮側が通信使の派遣を中止していた。しかし通信使はかつていずれも対馬は経由して日本を訪問し、対馬は通事を供出し、京まで随行しただけに、宗家には通信使接待のいわばノウハウが蓄積されていた。故に義調としては、通信使の訪日が百四十年以上途絶えていても、通信使を招聘すれば卒なく接待する自信があった。
 そして実はこの時、秀吉の側にもすぐさま朝鮮出兵に踏み出せぬ理由があった。それは関東と陸奥をまだ平定していないという国内事情の他に、博多の沖合を南蛮船フスタ号に乗って視察した際に、博多津は遠浅なので大船の就航は不可能だと聞かされていたからである。秀吉は博多を朝鮮出兵の兵端基地にしたいと当初は目論んでいたのが、これにより新たな兵靖基地を見出す必要に迫られていた。この事を知っているのは、この場に居合わせた者では小西行長ただ一人である。
 秀吉の脳裏に先ほど義調が述べた、「義なくしてこれを攻めるは民心の殿下より離れる因なり」の言が掠む。
「面白い」
 秀吉が言を発する。
「なれど讃岐。使節では儂は承知せぬ。国王を、高麗国王を来朝させて、儂に臣服を誓わせよ。それが出来るなら、攻め入りはしばし待ってやる」
「国王をでござりますか」
「そうじゃ、国王じゃ、出来ぬか」
 秀吉が問う。義調としてはもう出来ぬとは言えない。義調は観念した。
「殿下の御期待に添えますよう、不惜身命(ふしゃくしんみょう)……努力いたします」
 義調は再び、平伏した。
「あてにするぞ、讃岐」
 秀吉は自らの山羊髭(やぎひげ)を撫ぜながら、義調へ言を投げた。

 それから数日後、博多を去る義調・義智は宗室へ辞去を告げた際に、朝鮮出兵の阻止について宗室へ協力を要請した。
 宗室は朝鮮貿易で財を成し、現在の地位を築いていた。富山浦の倭館には宗室の息のかかった博多出身の恒居倭が数多く常駐し、宗室の命を受け、朝鮮から経典・茶器・木綿などを買い付け、その代価を銀または銅で払っていた。だからもし秀吉の朝鮮出兵が開始されれば、倭館は間違いなく閉鎖される。さすれば宗室の地位失墜は必然である。この意味において宗室と対馬は運命共同体であるというのが、対馬と宗室の共通認識であった。なお恒居倭は対馬・博多・堺の出身者がそのほとんどを占めていたが、恒居倭の総数は最も多い時には四百人にも達したと云う。
 宗室は出来るだけの事は致しますが、それがしは一介の商人です。それ以上でもそれ以下でもありませぬ。その事だけはお忘れなくと、義調へ念を押した。
 それから宗室は話題を変え、時に関白殿下が伴天連追放令を発せられたのは御存知ですかと、義調へ問うた。
 義調が詳しくは知り申さずと答えると宗室は、伴天連へは本朝からの退去を、靡下の武将へは改宗するように殿下は命じられました。しかし播磨明石城主高山右近さまだけは改宗を肯んぜす、領地を召し上げになられましたと、義調へ教えた。
 それに対して義調が摂津守も改宗されたのですかと宗室へ問うたので、宗室が小さくうなずくと、それを見た義智が、マリアさまは、御息女のマリアさまも改宗されたのですかと問うた。それに対し、さあそこまではそれがしは知り申さずと宗室は答えたが、義智の心配気な顔を見やり、義智公は摂津守さまより御息女の方が気にかかるのかなと、椰楡した。
 義智は赤面して、懸命に否定した。

            三、
 翌、天正十六年(一五八八)師走。
 秋口より心臓に痛みを覚えていた義調は冬に入り、病の床を抜けられぬ躰(からだ)になっていた。 筑前での秀吉拝謁から一年半後のことである。
 この一年半は秀吉および行長から、朝鮮国王招聴の矢のような催促の連続であった。
 秀吉は昨年七月二日に箱崎を発して、同十四日には大坂に凱旋したが、翌八月には秀吉が、九月には行長が朝鮮国王招聴を督促する書状を対馬へ送った。
 対馬へ帰島した義調はまず昨年九月、朝鮮の国情に通じていた柚谷康広を朝鮮漢城へ派遣したが、国王招聘とはとても言えぬので、まず秀吉の本朝統一を祝賀する通信使の派遣を朝鮮王朝へ要請した。だが李朝は日本を「纂試(さんし)の国」とみなし、康広の要請を一蹴した。康広は何ら成果を上げることなく、今年の三月に空しく帰島した。
 そこで義調は秀吉の奉書を玄蘇へ“偽造"させ、六月に再び康広を日本国王使に仕立て、府中長寿院の僧三亥を副使として再度、朝鮮へ派遣したが、国書の中に「天下、朕の一握に帰す」の文言が有り、これを李朝は書辞の無礼とし、また水路蒙昧を理由に、通信使の訪日を拒絶した。蒙昧とは愚かで道理に暗いことを云うが、ここでは水先案内人がいないので水路がわからないという意味である。康広はまたも空しく帰島せざるを得なかった。
 義調としては朝鮮から通信使が来なくても困るが、すぐ来ても困るという苦衷の中での康広派遣であったために、通信使招聘はどうしても熱の入ったものではなかった。
 また康広としても義調の意を充分に承知しているだけに、康広は朝鮮儀杖兵に対して槍が短いと嘲笑したり、地方官の白髪を、戦も経験せずに妓楼しか知らぬのに髪の白いのは何ゆえかと皮肉ったり、あまつさえ李朝王宮で開かれた歓迎宴では唐辛子をばらまいて、顰蹙を買ったりした。
 このように対馬が空しく時を稼いでいる間、秀吉の臨戦体制は着々と整えられていった。
 昨年五月より肥後の地は佐々成政に与えられていたが、肥後の国人が昨年八月に一揆を起こし、その鎮圧に効なきを責められて、今年の閏五月に成政は知行地を召し上げられ、幽閉先の尼崎で自刃。肥後は北部の隈本(くまもと)二十万石は加藤清正へ、西部の宇土十五万石は小西行長へ分与された。将来の朝鮮出兵をにらんでの秀吉の布陣であった。
 加藤清正、幼名は虎之介と称す。秀吉と同郷の尾張中村の出身。賎ケ岳の戦いの七本槍の武勇で知られる。通称は主計頭(かずえのかみ)。歳は当年二十七。
 加藤清正と小西行長は犬猿の仲である。清正にすれば恩賞は戦で武勇を上げた者へこそ与えられるべきだと考えていたので、輜重部隊である行長まで知行地を与えられることに我慢がならなかった。また清正は熱烈な日蓮宗信者だったので、キリシタンである行長を忌み嫌らっていた。一方、行長は清正を武勇一点張りの脳なしと蔑視していた。行長が大都市堺、清正が尾張中村の出身であるという、生まれ育った環境の違いも両者が相容れなかった一因である。秀吉はすべてを知った上で、この二人に肥後を分与した。朝鮮出兵の功を競わせんがためである。清正は侍大将から、行長は室津・小豆島・塩飽(しあく)諸島しめて一万石の領主からの大抜擢であった。
 また秀吉は七月に刀狩と、八幡(ハバン)船の取締りを全国に指示した。刀狩の目的は百姓一揆の防止だが、兵農分離による徴兵台帳の確立という目的も隠されていた。また八幡船とは海賊船・密貿易船のことだが、これを取り締まることにより海上支配の中央集権化を目ざした。将来の朝鮮出兵の際の海上輸送を視野に入れての発令であった。

 同年師走、義調は病(やまい)篤く、同月より家督を義智へ再び譲り臥せっていたが、自らの死期の近いのを覚った義調は十二日、府中宮谷の隠棲宅へ、島主義智・僧玄蘇・柳川調信・柚谷康広の四名を枕許へ呼び寄せた。遺言を申し渡すためである。
 呼び寄せられた四名が義調の病床を取り囲んだ。
 義調の頬はこけ、顔は土色に変じ、眼光炯々たる昔日(せきじつ)の面影はどこにもない。
 義調は利かぬ躰を康広へ起こさせ、声をかけた。
「康広、……朝鮮への使い、大儀」
「はっ」
「こいからも頼むぞ」
 康広の掌に義調の火照りが伝わる。
「御西殿、……」
 康広はその先が何も言えない。涙が頬を伝う。
「権之介」
「はっ」
「対馬の者(もん)になっちくれ」
 調信は朝鮮出兵で手柄を立て、秀吉より知行地を与えられて大名に取り立てられたいという野心を秘めていた。それを見抜いての義調の言である。
「お約束します」
 調信は大きくうなずいた。調信もこみ上げて来るものを抑えられない。
「玄蘇殿」
「ここに」
「義智を頼みます」
「……身命を賭してお守り申し上げます」
玄蘇の眼も潤んでいる。
「義智」
「はい」
「往(ゆ)け朝鮮へ、おまいしか、……おまいしか、対馬ば……」
 そう言うや義調は胸を抑え、前へつんのめった。
「御西殿、御西殿……」
 四名が一斉に声をかけたが、義調の意識が再び戻ることはなかった。
 その日の夜半、義調は他界した。
 対馬島主宗讃岐守義調。閑斎一鴎と号し、晩年を和歌を詠んで過ごしたかった男は、朝鮮出兵という歴史の歯車を身を呈して止めようとした男は、その願いをいずれも叶えることなく、齢五十七にして逝った。
 没後、義調へ椿齢宗長寿院と謚(おくりな)が奉じられた。椿の花が咲く頃に、椿の花が散るがごとく長寿を全う出来なかった義調へ、哀悼の意を表さんがためであった。


 2000年鳥羽市マリン文学賞入選作品に一部加筆しました。原稿用紙換算91枚

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