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金子みすゞは誰に対して詩を書いたのか?

 東日本大震災による企業CM自粛の影響で、AC(公共広告機構)の作製したみすゞの「こだましょうか」という詩がTVでうんざりするほど流されたが、最近ようやく少なくなってきたので、ほっとしている。このCMの影響かと思われるが、わがブログは「金子みすゞ」でグーグルやヤフーを検索すると、「金子みすゞの著作権」という記事が上位にヒットするので、かなりの閲覧があったようだ。そのため広島の閲覧者が多いときは40%以上だったが、いまは東京が1位で、しかも全国的に見ていただいているようだ。
 さて、みすゞの「こだまでしょうか」だが、映像で流される少年少女、特に「ごめんね」と呼びかけられたときの少女の「かたくなな」表情がよくて、かなり好評を得ているように思われる。
 しかしこの詩を額面どおり解釈し、「ごめんね」と言えば「ごめんね」と答えるのは、日本人だけだろう。かの国へ「侵略してごめんね」と日本は何度も謝っているのに(村山談話だけではなく、天皇陛下が訪中し、晩餐会で謝意を表しておられる)、かの国からは「ごめんね」じゃなく、「もっとODAをよこせ」だの「投資しろ」という声しか聞こえないし、交通事故を起したら、絶対に「まず謝らないこと」がアメリカでは鉄則だと聞く。
 だからこの詩をもって、日本人の美質である「思いやり」や「協調性」を広げようとACが意図して流しているのかどうかは不明だが、日本人の甘っちょろい「情緒」が、この詩の根底にはあり、この詩に共感を覚える日本人にもまた、その情緒という「呪縛」から逸脱できずにいることは指摘したい。
 ところでこの詩を私は拙著「金子みすゞーその視点の謎」の冒頭で取り上げた。その理由はみすゞの書いた詩を清書した手帳が、みすゞが私淑した西條八十と弟の手に渡されたからである。だから、みすゞの詩は一部の投稿当選作を除いては、みすゞは必ずしも全読者に対してではなく、この二人にだけ読んでほしくて、書いた詩もその手帳の中にはあったと考えるのが「順当」であろう。そう考えて、次の詩を読んでいただきたい。

 「こだま」 西條八十 少年倶楽部(昭和二年五月号掲載)

 心が寂(さみ)しくなったとき、/心が小さくなったとき、/僕は山に登るんだ。
 長い草を踏みしだき、/くらい並木を駆けぬけて、/僕は山に登るんだ。
 山のてっぺん、青空だ。/ひろい、深い、青空だ。/遠くの町は豆粒だ。

 僕は大きく、怒鳴るんだ。/「見ていろ、いまに豪(えら)くなる。」
 すると、こだまが返すんだ。/「見ていろ、いまに豪(えら)くなる。」

 僕の心は軽くなる、/たとえ皆は知らずとも、
 山のこだまは知っている、/僕の望みを知っている。

 この詩の書かれた時代背景と、掲載された「少年倶楽部」が軍国少年の愛読書であったことを考えれば、この少年の士気を鼓舞するような詩は、八十の「サービス精神」が書かせた詩だと、私は認識してしている。この詩をみすゞが読み、「先生、本当のこだまより、こんなこだまのほうが面白いと思いません?」と「異を唱えたく」て、みすゞが「こだまでしょうか」という詩を書いたというのは、私の単なる推測に過ぎないが、みすゞがかなり八十と同じモチーフで詩を書いている点と、繰り返しになるが、みすゞが自作の詩を手帳に清書し、八十に「贈呈」した点から考えて、かなりその可能性は高いと思われる。
 さらに弟に贈ったと思われる詩を読んでいただきたい。

 「空の鯉」

 お池の鯉よ、なぜ跳ねる。
 あの青空を泳いでいる、/大きな鯉になりたいか。
 大きな鯉は、今日ばかり、/明日はおろして、しまわれる。
 はかない事を望むより、/跳ねて、あがって、ふりかえれ。

 おまえの池の水底に、/あれはお空のうろこ雲。
 おまえも雲の上をゆく、/空の鯉だよ、知らないか。

 みすゞの弟の上山正佑(うえやままさすけ・故人)は幼少時に養子に出され、下関の大きな書店の跡取り息子として、養子と知らされぬまま育てられた。みすゞの実母がこの書店経営者の後妻になったため、みすゞは弟を弟と知りながら、「坊ちゃん」と呼んでいた。上山は上京し、文藝春秋に勤務し、また劇団若草を設立するのだが、書店の跡をなんとしても継がせたい養父との確執に苦しみ、その事情を知ったみすゞがこの詩を弟へ贈って、弟へ「自重」を促したと考えれば、みすゞの意見は明白だと思われる。
 
 以上のように、みすゞの詩は、その作者の人生や環境、そして時代的背景を考慮して読むと、なかなか面白い。それを「みすゞさんの優しい心がいまという国難の時代によみがえり云々」などと講釈を垂れ、「情操教育」の一環として道徳の教科書に掲載しよう、あるいは宗教的に利用しようなどと考えるやからがぞろぞろ、それこそ「こだま」のごとくまたしても現れるのは、虫唾が走る思いである。
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