RSS

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
トラックバック
トラックバック送信先 :
コメント
▼このエントリーにコメントを残す

   

短編小説「手合(てごう)」原稿用紙換算24枚

「こちらは江田島警察署ですが」
その電話は師走も半ばを過ぎ、そろそろおせち料理の買い出しに行こうかと考えていた日曜日の昼下がりにかかってきた。江田島には六十九歳になる父が一人で住んでいる。父に何かあったんだ。私は思わず受話器を握りしめた。
 電話の奥のくぐもった声は私の名前を確認したあと、さらにたずねた。
「里村雄三さんの娘さんですね」
「はい、そうですけど、父に何か……」
 父の名を告げられたことで、私の胸中を不安が水に垂らした一滴の墨汁のように広がった。
「実は里村さんが交通事故に遭われまして、救急車で市内の病院に搬送されました。意識はしっかりしてらっしゃいますが、脚の骨を折る重傷です」
私は胸のたかぶりを抑え、病院の名をメモし、書き終わるやすぐさま叫んだ。
「わかりました。これからすぐフェリーで江田島に向かいます」
 受話器を置くや、私はベランダの外へ眼をやった。私の住む宇品のマンションからは安芸小富士の異名を持つ円錐形の似島が見え、その奥に晴れた日は江田島が遠くにかすんで見えるが、今日はどんよりと曇って似島の中腹しか見えない。私は父の無事を祈り、すぐさま身支度に取り掛かった。

「猫が急に飛び出してきてのう」
 病室のベッドに横たわり、ギプスで固定された両脚を吊り下げられた父は、私の方にほんの少しだけ顔を向け、申し訳なさそうに言い訳を始めた。
 父の説明によると、JAの集荷場にみかんを運んだ帰り、県道を走っていたら、猫が道の真ん中でわしを見て動けずにいた。その猫を避けようとして軽トラのハンドルを切ったら、あいにく電柱とぶつかってしまい、エアバッグが開いたので上半身は無事だったが、脚をはさまれてしまったとのことだった。
「じゃけえ、わざわざおまえに来てもらうほどのことじゃないんじゃ。脚の骨を折っただけじゃけえ。わしは知らせんでもええと言うたんじゃが、警察がどうしても身内のもんに連絡せにゃならんと言うけえ」
 父は不満を隠そうとはしなかった。私は顔がこわばるのを覚えた。
「そんなこと言うもんじゃないですよ、雄さん。娘さんは心配してわざわざ駆けつけてくれたんだから」
 病室まで案内してくれた遠藤さんが父をいさめた。遠藤さんは埼玉でサラリーマンをしていたが、県の農業研修と市の定住促進制度を利用して一昨年、江田島へ移住し、父のみかん作りと他の農家でイチゴ栽培やコメ作りを手伝ってくれている人だ。歳は私よりひと回り若く、たしか三十になったばかりだと聞いている。
 遠藤さんの存在を、父は「手互してもろとらん。みかん作りを教えてやっているだけじゃ」と口にするが、去年の秋に母を亡くし、一人で暮らす父がみかん畑を誰の手も借りずにやっていけるはずはなく、遠藤さんへ感謝の念を抱いていることは、言葉とは裏腹にその態度から充分にうかがえた。
 手互は父の口癖である。助ける、手伝う、協力するといった意味の古い広島弁だが、一人に物を頼む場合は手はお互いだから手互といい、複数の場合は手を合わせるという漢字をあてるから、手合と発音すると父は言う。それが正しいのかどうか私は知らないが、ただ父がたびたび口にするこの言葉を、私は能美中学の二年生の時、バレーボールの地区大会にはじめてレギュラーとして出場し、試合前に円陣を組み、みんなで手を重ねた時に不意にこの言葉を思い出したことを、三十年近く経ったいまでも鮮やかに覚えている。しかし私は手互も手合も口にすることはほとんどない。
「じゃあ、私はこれから整備工場へ寄って、廃車の手続きを取って帰りますから」
 遠藤さんが立ち上がった。
「そうじゃのう、みかんの穫り入れもほとんど済んだけえ、車がのうてもすぐには困らんが、車がのうなると来年の民泊は難しゅうなるのう。ばあさんも逝んだけえ、今年は大変だったし」
 父が私にも遠藤さんにも顔を向けず、天井を眺めたままつぶやいた。
 民泊は修学旅行で広島を訪れた生徒を江田島市内の各家庭に宿泊させ、農業や漁業を実体験させるという事業だ。父はこの事業の推進者だった。農協の職員だった父は推されて能美町議員に立候補し、落選することなく4期十六年の議員生活を送った。だが江能四町(江田島・能美・大柿・沖美)が合併する際に新しい名称を何にするかで揉めた際は、「江能市がええのう」というダジャレを合言葉に能美町議会をまとめるだけでなく、沖美・大柿の議員にも働きかけたが、「江能市だと江田島と能美だけが合併したように思われる」と反対され、結局は「江田島の名は海軍兵学校があったけえ、戦前から日本中に知れわたっとる。いまも海上自衛隊幹部候補生学校がある。じゃけえもし江能市になったら、日本のどこにあるんか説明するのに苦労する」という江田島町議会側の意見に押され、最終的には能美町役場を江田島市役所の新庁舎とするという妥協案を能美町議会が飲むことで、合併後の名称は江田島市に決まった。能美町議会が名を捨てて実を選んだことで、平成十六年十一月一日に江田島市が誕生した。
なおこの交渉の途中で近隣の呉市か広島市に吸収合併してもらおうかという案や、「そんなに揉めるなら、いっそ南広島市にしたらどうじゃろうか」という者もいて、かなり賛同する者もいたようだが、父はこれらの意見を一笑に付したと聞いている。
能美町で生まれ育ち、地元の高校を卒業して広島市内で就職した私は「江田島は隣の町」という認識だったが、最近では自分の出身を江田島だと人に言うことに抵抗がなくなっていた。
この合併によるしこりに嫌気がさしたのが理由かどうか私は知らないが、父は合併後にはじめて行われた江田島市議会議員選挙には立候補しなかった。六十一歳になったばかりで、父より高齢の議員もかなりいたが、父は十六年の議員生活に自ら終止符を打った。
母は父の引退を心から喜んだ。「あんただけに言うんじゃけど、議員を辞めてくれたけえ、うちゃ隣近所にペコペコして、ビクビクしながら暮らさんでもようなった。父さんに言うたらいけんよ」と、母がこっそり打ち明けてくれたことがある。
父はこれからは民泊事業を民間として応援したいと唱え、「江能民泊家庭連絡協議会」という名称でボランティア団体を設立し、その会長として市の職員に対応するだけでなく、修学旅行生を受け入れてくれる家庭の拡大やアドバイスに専念していた。
「その脚では民泊どころか、車の運転も難しいでしょ。用があったら、どこでも私が連れて行きますから、まずは脚を治すことを考えてください。じゃあ、私はこれで」
 遠藤さんは父と私へ会釈し、病室を出ていった。私は遠藤さんへお世話になった礼を幾度も述べ、彼を見送った。
「遠藤くんはああ言うてくれるが、やっぱし車がないとのう」
 父が思案顔のままつぶやいた。車を手放して江田島で暮らすことの不便さは私も充分に承知している。一昨年から母が体調を崩し、通院と入退院を繰り返したが、もし車がなかったらどんなに不便だったかは想像に余りある。それに父が生きがいとしている民泊事業の推進には車が不可欠だろう。
 父はこれまで交通事故を起こしたことがない。それだけに運転にはかなり自信があるようだが、父が今度の事故にいささかもショックを受けず、新たに車を購入して運転を再開しそうな様子に私は少なからず戸惑った。
 高齢者がブレーキとアクセルを間違えたり、高速道路を逆走して事故を起こしたという新聞記事をよく眼にする。江田島に高速道路はないのでその心配はないが、やはり加齢による反射神経の衰えはあるだろうから、できれば父にはあまり運転してもらいたくない。
「ところでわしの事故のことを、俊之には連絡しとらんじゃろの?」
 じっと父の顔を見下ろし、黙ったままの私に父がたずねだ。俊之は東京に住む五歳年上の兄の名である。電機メーカーに勤務し、駐在員として上海支店に長く勤めていたが、いまは海外事業本部に在籍し、課長職に就いている。兄は「農家の跡継ぎで一生を終わりたくない」と口にし、ひたすら勉強した。そして広島市内の私立の中高一貫校に進学し、自転車と高速船を利用して六年間、片道二時間近くかけて通学した。私が覚えている兄は机に向かって勉強しているか、いつも寝てばかりいる姿だった。兄に遊んでもらった記憶もほとんどない。兄は東京の大学に進学し、東京で就職し、結婚して一男一女をもうけた。父は「農家はわしの代でしまいにする。農業に将来はない」と、兄の生き方を応援するような口ぶりだったが、それが本心によるものかどうか私にはわからない。
実家にほとんど帰省しなかった兄とは去年の秋、母の葬儀で顔を合わせた。その夜、父と兄と私の三人で話す機会があった。兄は「長男の責任」を重々しく語り、さらにこれから一人で暮らすことになる父を心配したのだろうか、「いますぐにという話ではないけど、いずれは東京で一緒に暮らさないか」と、父を誘った。だが父は「足腰が立たんようになったら、わしゃ山を売って施設に入る。おまえの世話にはならん」と告げ、兄の申し出を断固として拒否した。
「あれに知らせても、あれもいろいろ忙しいじゃろうけえ、知らせん方がええ。それよりおまえ、今日はどうするんじゃ?」
 ぼんやりと兄のことを思っていた私に父がたずねた。
「どうするって、何?」
 私は質問の意味がわからず、父に問い返した。
「だいぶ暗うなったが、急げば、広島行きの最終のフェリーにまだ間に合うじゃろ」
 父が窓の外を見やり、私に顔を向けずに告げた。
「私に帰れって言うの?」
私は声がとがるのを抑えられなかった。
「そうじゃ。貴彦くんも心配しよるじゃろうし、おまえも仕事があるじゃろ」
 父が私に顔を向けて、ぎこちなく笑みを浮かべた。貴彦は私の二歳年下の夫である。私は江田島へ行くので車を貸してほしいと夫に許可を求め、パートに出ている全国チェーンの弁当屋の店長に、シフトを変更して明日は休みにしてほしいと連絡していた。
私は夫と結婚して十五年になるが、私たちの間には子どもができなかった。結婚して四年目から不妊治療に通い、基礎体温を測って確率の高そうな夜に貴彦を求め、貴彦に「疲れているから」と拒絶されたことも数え切れないが、四十歳を過ぎて子どもはあきらめた。不妊治療から精神的にも経済的にも逃げたかった私は「答え」を出したくて、夫にも検査を受けてくれるように頼んだことがある。だが、夫は検査を受けてくれなかった。だから、子どもができなかった原因が私ではないことはわかっていたが、それを口にしてもどうなるものでもないので、お互いその話題を避けていまは暮らしている。子どものいない夫婦は絆がより深まるらしいという話も聞くが、うちの場合は大人になりきれないまま、お互いどこか遠慮しながら暮らしているように思う。
夫は釣りが好きで、今日も岩国沖まで仲間と釣りに出かけていたが、結婚前は私が島の出身だと知ると喜び、新婚の頃は能美島にもよく出かけ、同じく釣り好きだった父と釣り談義に花を咲かせて酒を酌み交わし、私の実家に一人で泊まったこともあった。だが私が不妊治療をはじめた頃から、夫は私の実家に出向くのを渋るようなった。その理由を私は問いたださなかった。
兄は子どもたちが幼かった頃は年に一度、正月に帰省し、みかん狩りを子どもたちに楽しませたりしていた。だが上海に家族で赴任したこともあって、子どもたちが成長してからは帰って来ることはほとんどなかった。
父が民泊事業に熱心に取り組んでいるのは、兄が故郷を捨て、「私が孫の顔を見せてやれなかったからだ」という思いがあり、私の足は実家から遠のいてしまっていた。
 母の病は江田島の病院では治療が難しく、母は私のマンションの近くの県病院に転院していた。私はほぼ毎日のように母を見舞ったが、「能美島へ帰りたい。島で死にたい」と嘆く母をなだめ、はげます日々だった。だが体調の良かったある日、「うちが死んだらの話じゃけど」と前置きし、一人遺されることになる父を案じて、たびたび実家へ帰って来るように私に求めた。母の余命を知っていた私は元気づけることもできず、必ず帰るようにすると約束した。それから十数日後に母は島へ帰ることなく、他界した。母はガンだった。
 母と約束したにもかかわらず、父が病気らしい病気もせずに元気だったのと、父はひと通りの家事は自分でこなすので、夫や夫の実家への気兼ねもあって、私は母との約束をないがしろにしてしまった。
 私たち夫婦が宇品の分譲マンションを購入したのは、予算と広さや夫の通勤を考慮し、それに釣りが唯一の趣味である夫が海のそばに住みたいと希望したためだ。しかし実は、宇品港から江田島行のフェリーが出ているので、実家に帰るのに便利だと私が考えたのも理由だった。そのことを夫の実家には見透かされていて、あからさまに口に出されたこともある。「姉さん女房じゃなく、もっと若いお嫁さんをもらっとけば」とまでは言われたことはなかったが、それだけにたびたび実家へ帰るのは後ろめたかった。
 そんな私の思いを知って、父は私に帰れと言うのだろうか。
「どのくらいで退院できるの?」
私は心を落ち着かせ、父の言葉を聞かなかったふりをしてたずねた。
「医者は一週間くらいで退院してもええと言よる。じゃが退院しても当分は松葉づえじゃろうな」
「じゃあ私、退院までずっといる」
 パートを一週間続けて休むのは難しいと頭の隅ではわかっていたが、つい勢いで私は言ってしまった。
「だめじゃ。帰りんさい。完全看護じゃし、遠藤くんもおるけえ、わしのことは何も心配いらん」
 父は頑なだった。だがそうこうするうちにフェリーの最終便に間に合いそうな時刻を過ぎてしまったので、今晩は取りあえず実家に泊まり、明日、広島へ帰って、また来るという私の意見に父はしぶしぶ同意した。
 父から実家の鍵を受け取り、私が病室をあとにしようとすると、「あんましきれいにしとらんけえ、たまげるなよ」と、私の背に向かって父が言った。
 
 海ぞいの県道を脇にそれ、山あいの道をかなりのぼったところに私の実家がある。家の裏手はすぐみかん畑だ。
 暗い中を手探りで鍵穴を探して戸を開け、土間に入って照明をともし、部屋へ上がると私は声をあげそうになった。こたつの上には茶碗、みかんの皮、割り箸を突き立てたままのカップラーメン、スーパーの食品トレー、飲みかけのペットボトル、横倒しになったビールの空き缶、歯ブラシ、老眼鏡などさまざまなものが散乱し、さらにこたつの周囲には新聞やチラシ、それに脱ぎ散らかした服がいくつも丸まっていた。
 私は父が実家に私を泊まらせたくなかったわけをさとった。「男やもめにうじがわく」という言葉は知っていたが、几帳面できれい好きな父に限ってそんなことはないと、私は信じていた。母が亡くなって私が実家に帰ったのはお正月、四十九日、初盆、そして民泊のための炊事の手伝い、一周忌の合計五回だと思い返して、私は気づいた。私は実家に帰ることをいつも事前に父に知らせていた。今回のような予定になかった訪問ははじめてだった。
 私は仏間に向かい、母の遺影に掌を合わせた。ろうそくを灯し、線香を立て、りんを鳴らして瞑目すると、母との約束が思い出された。
子どもが産めなかった理由がわからないままの私は、何をするのにも理由がほしかった。だから、実家へも理由のある時にしか帰ろうとしなかった。
ごめんなさい、母さん。
熱いものがこみ上げ、私のほほを涙がつたった。

 翌朝、私は部屋を片付け、洗濯を済ませると、父に頼まれた着替えと老眼鏡、それに民泊の子どもたちから寄せられた手紙を冊子状に整理したクリアファイルをカバンに詰め、再び病院へ向かった。
 昨日はベッドに横たわったままだったが、今日の父は上半身を起こし、昨日よりも血色がだいぶよかった。父は部屋が散らかっていた話題に触れようとしないので、私もその話題に触れないでいると、父は見入っていたクリアファイルから眼をあげ、民泊の話をはじめた。
「都会の子は行儀がばりよおての、着いてすぐは借りてきた猫のようにおとなしゅうて、遠慮しいなんじゃが、そのうち地が出てきてな、帰るころにはまとわりついて離れんようになったり、一晩泊めてやっただけなのに港では泣き出す子もおるんぞ」
「そうなの」
「ほいでの、子どもらが帰ったら、先生に書かされるじゃろけど、感謝の手紙が来るんよ。わしゃそん手紙を読みながら、子どもらの顔を思い浮かべるのが楽しゅうてならんけえ、民泊がやめられんのじゃ。俊之の子どもが島に来んようになったけえでも、おまえに子どもができんかったけえ、人様の子どもをかわいがりよるんじゃないんぞ」
私は何も言えなかった。
「おまえも遠慮しいじゃが、もちっと地を出してもええんぞ」
 父がほほ笑んだ。
「みかんの穫り入れで忙しかったけえいうて、部屋ぐらい無精せんと掃除しんさいよって、わしを叱ってもええんぞ」
 父が再びほほ笑みかけたので、私はぎこちなく笑みを返した。
「じゃけえ、来年の民泊はもちっと手互してくれんじゃろか。女手があると何かと助かるけえ」
「うん、わかった。民泊だけじゃなくて、何だって手伝う。用事があってもなくても帰って来る」
 昨日、母さんと約束したからとは言えなかかった。言えば、また涙をこぼしてしまいそうだった。

 切串港を出てほどなく、私は誰もいない甲板にのぼった。吹き来る風は冷たく、身を切るようだった。
 穏やかな海面を白く泡立たせ、航路を描くその向かうに江田島がだんだん小さくなっていく。江田島の奥に重なるように見えるのが西能美島、そしてここから見えないが西能美島のさらに奥にあるのが私の生まれ育った東能美島だ。三つの島は陸続きなのに、なぜ島の名が分かれているのか、私は知らない。
 兄は東能美島の中町港から高速船に乗って通学したから、この航路を利用することはなかったが、それにしてもよく六年間も通学できたものだと、フェリーに乗るたびにいつも感心する。それだけ島を離れたいという気持ちが強かったのだろうか。
 私は思いをふくらませた。
そうだ、兄に父の事故のことを連絡しよう。父は知らせるなと言ったけど、「正月くらい、家族で帰ってきんさい。うちが瀬戸内のおいしい食材で、おせちを作ってやるけえ」と広島弁で連絡したら、兄は驚くだろうか。
「手互」
 私は小さく声を出し、つぶやいた。
遠藤さんにも甘えよう。遠藤さんは父のいつも身近にいてくれる人だから、他人だからって遠慮せず、無理もお願いしよう。
貴彦にも遠慮をするのはやめよう。これまで釣りなんて退屈だと思っていたけど、貴彦に釣りを教えてもらおう。「ぼくはきみが魚を三枚に下ろせるから、きみとの結婚を決めたんだ」と冗談交じりに言われたことがあるけど、私も貴彦の帰りを待つばかりじゃなく、釣りに連れてってもらおう。貴彦より大物を釣って、貴彦を悔しがらせてやろう。能美島の実家にも連れて行こう。夫の実家にどう思われたってかまわない。貴彦は私が選んだ人だから、貴彦は私を選んでくれた人なんだから。貴彦と二人でずっと生きていこう。
女は八十過ぎまで生きるんだ。私はまだ四十二歳。マラソンでいえば折り返し地点を過ぎたばかりじゃないか。これから後半戦だ。子どもが産めなくたって、女はずっと女だ。
「手合」
 今度はさっきよりもっと大きく声に出してみた。
 父には帰ったらすぐにまた会いに行こう。私は父の娘なんだから、理由があってもなくてもこの島に会いに行こう。この島は私のふるさとだ。
ふるさとの父を囲み、みんなで手を合わせて戦おう。「能美中、ファイト」と声をそろえ、バレーボールの地区大会に円陣を組んで臨んだ中学生のあの日のように。それでいいよね、母さん。
 私は空を見上げた。重く垂れこめた雲の切れ間からもれた一条の光が、海面をかすかに照らしていた。



スポンサーサイト
トラックバック
トラックバック送信先 :
コメント
▼このエントリーにコメントを残す

   
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。