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「悪人」吉田修一 ☆☆☆☆☆

 一言でいうなら、スゴイ小説である。帯に「大佛次郎賞・毎日出版文化賞受賞」とある。どちらの賞も詳しくないのだが、私は乱歩賞であれ、直木賞であれ、受賞作だからといってわざわざ読むことはしない。ただ受賞して当然の作品だと、読み終えて感じた。さらに帯には「魂を揺さぶる人間ドラマの傑作」とある。書店でこの帯を眼にした私は、「オーバーなコピーだな」と感じたが、これがあながち嘘ではないと読了後に感じた。この作品を読んで、中上健次「枯木灘」・立松和平「遠雷」を読んだときに味わったのと同じような「衝撃」を受けた。
 吉田修一氏については、芥川賞受賞作品の「パーク・ライフ」の冒頭を数ページだけ読んだことがある。渋谷駅だったと思うが、私鉄と地下鉄が入り込み、縦に切ったらケーキの断面のように見えるといった記述があり、そこで読むのを止めた。東京に住んだことのない私は何々駅と言われても、実感がわかなかったからである。それに文体もちょっと苦手に感じた。
 さて本作品だが、パラパラと書店で立ち読みすると、「JR久留米駅」の記述に出会った。私事だか、三十数年前に私はこの駅のすぐ近くの明善高校に通い、さらにここに付属する明善時習館という予備校にも通ったので、きわめて馴染みのある場所である(もっとも当時は国鉄と呼んでいたが)。さらに余談ながら明善の出身者に、作家では箒木蓬生氏と酒見賢一氏がいる。私は箒木氏より若く、酒見氏より年配だから、高校時代の二人は知らない。ただこの高校にはブリヂストンの石橋一族からの寄付で造られた「石橋記念プール」というのがあった(誰もそんな名で呼んでいなかったが)。ブリヂストンの工場も高校のすぐ近くにあった。
 なぜこんな私事を綿々と書いたかというと、殺された女性が「石橋」だからである。これを見て、私は迷わず購読を決めた。
 まず本作品の主要登場人物を紹介する。JR久留米駅近くのイシバシ理容店の一人娘で、福岡の生命保険会社に勤務し、殺害される「石橋佳乃」、湯布院の高級旅館の跡取り息子で、佳乃を殺害現場の三瀬峠に置き去りにする南西学院大学(西南ではない)のボンボン大学生「増尾圭吾」、長崎市近郊の土木作業員で、佳乃を殺害する「清水祐一」、佐賀の紳士服販売店に勤務し、祐一の逃避行を手伝う「馬込光代」。この二組の男女の出会いは、ナンパと出会い系サイトである。
 この小説を読んで感心し、かつ勉強になったのが、この四人だけでなく、その周辺人物もきわめて丁寧に書き込まれており、この四人の人間像を浮き上がらせるている点である。特に佳乃の父の佳男、増尾の友人の鶴田、祐一の祖母の房枝、祐一が通い詰めたファッションヘルスの金子美保、光代の双子の妹である馬込珠代といった周辺人物と視点を描写にすることで、ストーリーを進める作者の手腕には舌を巻いた。
 さらに本作品は三人称で書かれているが、最終章では全体として半分ほど、一人称のモノローグに変え、それが作品の厚みを増し、成功している。
 それに最終章ではフェードアウト・フェーイドインというテクニックが使われている。これはドラマではよく使われる手法だが、ある小道具で話を終えたら、次の話をその小道具で始めるという手法である。たとえばある男が窓の外を見る。雪が降っている。「雪か」と呟く。すると次の話は街に降る雪を映し、空を見あげた女が「あら、雪」と呟くといった手法である。この「悪人」でも、電話・粉雪・轍・「これを」というセリフが、場面転換をつなぐ小道具として使われている。ここに作者の「遊び」と「読者サービス」を、私は感じた。
 しかしこの作品はかなり手ごわく、かつタイトルの「悪人」と、最後を光代のモノローグ「あの人は悪人やったっとですよね? その悪人を、私が勝手に好きになってしもうただけなんです。ねぇ? そうなんですよね?」で終えることから、この作品は人間の悪をテーマとして書かれたと読者は思うかもしれないが、それは吉田氏のフェイク、言い換えるなら「偽装」じゃないかと、私は感じた。祐一は悪人じゃない、悪人は増尾と祐一の母、そして殺された佳乃などと感じるのは、それこそ吉田氏の「思うツボ」かもしれない。
 独断ながら、この作品を読み解くキーワードは「灯台」である。「あの灯台をずっと見ときんしゃい、かあちゃんは切符ば買うてくるけん」とフェリー乗り場で母に言われ、一晩中母を待ち続け、母に捨てられた祐一。灯台を見に行こうとメールを交換し、やがて祐一の殺人を知った光代が祐一を匿う無人の灯台。祐一はこの灯台で逮捕される。夜の海を照らす灯台に作者が託したものは、無明の現代社会に灯りを求めて彷徨う現代人の群像じゃなかろうかと、そんなふうに私は感じた。
 それにしてもセックスと暴力シーンの描写が吉田氏は抜群にうまい。どちらも私の苦手なシーンだけに、こういうシーンが描けないと、一流の作家にはなれないなと、感じた。
 なおこの作品は朝日新聞に連載された小説である。場面転換や視点が小節ごとによく変わるのは、そのせいかもしれない。しかしこの作品世界に浸った読者は続きが読みたくてウズウズしたことだろう。朝日新聞社が編修したこの作品の公式サイトがあるが、これが実によく出来ていて、面白い。
 最後に、この作品で私が最も好きな箇所を書く。祐一が逃避行を続けたため、房枝の元にマスコミが押し寄せる。房枝は夫の勝治を見舞うために、長崎市内の病院までバスで行かなければならない。房枝がバスに乗る。マスコミもバスに乗り込む。そこで運転手が怒鳴る。「ばあさん、いじめても仕方なかろうが」。マスコミはすごすごとバスを降りる。(無愛想で、運転が荒く、この路線の担当ドライバーの中でも、房枝が一番苦手な)と描写された運転手のセリフである。その運転手が房枝がバスを降りる際にマイクを通じて語る。「------ばあさんが悪かわけじゃなか。しっかりせんといかんよ」と。
 人間の悪を描きながら、本筋からかなり離れた場面ではこういった人間の「善意」を描く作者の手腕には、驚嘆するしかなかった。吉田修一、まさに畏るべしと感じた。
 それと「オレンジのスカーフ」がいい。これだけ書いても、ここの閲覧者は何のことかわからないと思うが、あえて説明しない。ぜひこの作品を読んでほしいからだ。スカーフは最後のほうに出て来る。
 作家未満の私が言うのもおこがましいが、すべての作家志望に読んでほしい一冊である。


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