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歴史・時代小説論 2)藤沢周平

 藤沢周平をはじめて読んだのは三十代後半、おそらく四十近くになってからだと思う。
 藤沢周平の名は知っていたが、ずっと私は彼を敬遠していた。それは私が福岡県・鹿児島県・大阪府・奈良県・広島県に住んだいわば「西の人間」であり、藤沢が山形県出身で、庄内藩をモデルとした「海坂藩」や江戸を舞台した小説を書く作家だと知っていたからである。東北や江戸になじみの薄い私は、あえてそこを舞台にした作品を読みたいとは思わなかった。
 しかし「蝉しぐれ」を読み、彼の魅力にはまってしまった。一時期は藤沢周平ばかり読み漁っていた。そして感じたことは、藤沢作品の小説としての「保守的」なうまさである。司馬遼太郎の小説も面白いと思うが、司馬作品は小説としてより、司馬の博覧強記による「講談」としての面白さが勝っているように感じられる。しかし藤沢作品はそうではない。丹念な自然描写、読者を飽きさせないストーリー展開、人物と心情の細やかな描写、ここという見せ場での登場人物の決めセリフなど、舌を巻くばかりだった。
 私の好きな三作品の一場面を紹介し、藤沢の「うまさ」を体感してほしい。
◎蝉しぐれ
 主人公の牧文四郎は里村家老の謀略を、謀略と知りつつ、幼馴染のふくとその息子を連れ出す。文四郎は里村の差し向けた追っ手を斬り、里村の屋敷を訪ねる。
(文四郎は襖をしめ、ずかずかと歩いて里村が向かっている机から三間ほどの場所に坐った。
「軽輩とみて、侮られましたな」
 里村は無言で文四郎を見ていた。文四郎の姿を見たときに、今夜の計画が齟齬をきたしたことを悟ったはずだが、顔にはその失望を出していなかった。家老は無表情な眼を文四郎にそそいでいる。
「無益に、人が死にましたぞ」
 文四郎は低い声でつづけた。
「それがしも、ふりかかる火の粉ははらわねばなりませぬ。ご家老がたの、私利私欲のために人が死んだのです」
「ちがうだろう」
 里村家老が、はじめて声を出した。
「藩のために死んだのだ」
「お黙りめされ」
 文四郎は鋭く言った。斬ってやろうかと思うほど、眼の前の家老に殺意を覚えた。
「さような物の言い方は、もはや聞き飽きましたぞ。どうやらご家老は、死んで行く者のお気持ちを推しはかれぬお方らしい。死に行く者の気持ちとは-------」)
一茶
 江戸で俳人として成功した一茶は信濃に帰郷するが、一茶を待っていたのは継母と義弟との土地相続争いだった。五十一歳の一茶は二人との争いに勝利し、二十八歳の妻、菊を娶る。だが若妻がなぜ自分のような老いぼれのこところへ嫁に来たが、妻を信じられず、嫉妬が一茶の心をさいなむ。
(「おまえは菩薩さまじゃ」
 一度子供を生んで、ふっくらと重みと嵩を増した菊の乳房を弄びながら、一茶は酔い痴れたように囁いた。菊を抱くとき、一茶の脳裏を、江戸の娼婦にあなどられながら過ごした夜の記憶がかすめて過ぎることがあった。その記憶は、いまの幸福感を倍加し、欲情を高めてくる。
 一茶の手は、さらに隠されたふくらみを探り、痴愚の動きを示しはじめていた。菊は、閨では機嫌のいい女だった。一茶の手の動きに身体をくねらせ、喉の奥で含み笑いながら、一茶の耳に息を吹きかけた。
「あれ、ま。大げさな」
「観音さまじゃ。菊」
「観音さまなら、なぜ悪口言って泣かせた? ん?」)
市塵
 新井白石は眼をかけていた弟子の伊能が恋に狂い、夫のある女性と駆け落ちし、自らの下を去り、うどん屋で修行を始める。
(-------意気地のない男だ。
 と、思った。伊能の年ごろのおれには志というものがあった。と白石は思う。そのせいか、ひところは夢にしきりに蒼龍、赤龍を見たものだ。直参となって天下のまつりごとに加わり、近ごろは異国との国交までまかせられるところまで来たのも、その志があったからと言えよう。
 そういうわが身にくらべ、旗本奉公ひとつ出来ぬとは若者としてあまりに意気地のない話ではないか、志というものはないのか、と白石は思う。しかしそう思いながら、白石は自分が伊能に対してあまり腹を立てていないのにも気づいていた。
------市井紅塵の間に生業をもとめ、か。
 可憐なことを言うものだという気もした。おそらく女にすすめられてその決心をつけたのだろうが、市井に生きることが武家奉公より楽だとはかぎるまい、と白石は一方で伊能の決心を憐れんでいるのである。)
 なぜ、この三箇所を書き写したのか、私は解説しない。ここの閲覧者が何かを感じ取っていただければ、無上の喜びである。
 さて、藤沢は歴史小説を書くことをどのように考えていたのか、それを司馬と同様に、藤沢自身に答えてもらおう。「周平独言(中央公論社)」の「史実と想像力」より、藤沢の考えを紹介する。
(私はこれまで、解らないものは書かないのが歴史小説だと、単純にそう思ってきた。資料で確かめ得た事実だけを書き、想像をはさまないという意味である。こうした考えの土台には、やはり若い時分に読んだ鴎外の「興津弥五右衛門の遺書」や「阿部一族」の記憶がある。
 ところが最近、実作の都合から鴎外を読み直してみて、この考えがおぼつかなくなってきた。想像力が関与しない小説があり得るかという疑問である。(中略)
 想像を排し、事実だけが示す歴史のようなものを提出するのが歴史小説だというこれまでの私の考え方は、その考えが鴎外の作品に土台を置いている以上間違っているようである。事実、無限に想像を削り落として、解っている事実だけを書くとしたら、それは歴史そのものであって、歴史小説とは呼べないのではないだろうか。)
 この藤沢の文章に出会った際、私はまさに眼から鱗が落ちた思いだった。そうなのだ、書きたいのは小説なのだ、歴史ではないのだと。
 さらに史実と史実とをいくらつなぎ合わせても、その間(はざま)でうごめく人間の息吹を「想像」して書けなければ、それは小説とは呼べないだろうと、私は藤沢のこの文章から気づかされた。小説が書けるかどうかは、煎じ詰めれば「人間」が書けるかどうかだとも、改めて気づかされた。
 けっして史実を軽視するわけではないが、史実と史実の間にはどうしても「隙間」がある。それを想像力を駆使し、人間というジクソーで埋め、パズルを完成させるような手法が藤沢の真骨頂である。かつまた「蝉しぐれ」「用心棒日月抄」「三屋清左衛門残日録」などに代表されるような、人間の苦悩をあますことなく描いた作品に見られる、作者の視線の「優しさ」が藤沢周平の魅力ではなかろうかと、私は考えている。
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