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幕末の岩国



幕末の岩国    高遠信次     




中国新聞朝刊文化面「緑地帯」に平成19年7月17日より 8回にわたって掲載されたエッセ-を転載します。




 輝元と広家

 山口県の東端に位置し、江戸時代には毛利ではなく吉川が治めていたという点が、私が岩国に心引かれる理由である。

 吉川家の藩祖広家は関ケ原において東軍の徳川家康に内通し、兵を動かそうとしなかった。

 合戦後、西軍の総大将に就いていた毛利輝元は、中国地方八カ国百十二万石の大名から防長二州二十九万八千余石に削封され、居城を日本海沿いの萩に定めさせられたが、広家は出雲富田から岩国三万石(寛永期の再検地により六万石)へ転封され、存続を図る。

 しかし岩国は毛利三支藩(長府五万石・清末一万石・徳山四万石)より石高が高いのに、広家以外は三支藩の下、宗藩家老の上の「陪臣」として冷遇されるという関係が続いた。宗藩には関ケ原の戦い以降に主戦派と和平派の間でしこりが残り、ひいては広家の行為が毛利を思っての事か、それとも自家の安泰を図るためかの解釈が岩国と萩の一部では異なり、その相違が両者の齟齬の原因だった。

 もっとも吉川が藩として認められなかったのは、広家が二代将軍秀忠の上洛に際し、実子を人質として差し出さなかったので将軍のお目見えがかなわず、諸侯として認められなかったからである。

 しかし長州藩主毛利慶親は両者の関係を改善すべく吉川へ手を差し伸べ、岩国領主吉川経幹は慶親へ忠誠を誓っていた。

 岩国は慶親がこの地を訪問した際に支藩として認められたが、幕府からはついに藩として認められず、明治に入ってようやく認められた。

 このような歴史的経緯と後の第一次、第二次幕長戦争において、吉川がその迫り来る困難をいかに対処したかに私は興味を抱いた。なぜなら幕府が東から攻めて来るのは歴然だからである。





 吉川監物経幹

 「きっかわけんもつつねまさ」と正確に読める人は少ないだろう。彼の読み方はよく間違えられる。吉川を「よしかわ」と読む人は少ないだろうが、幹を「まさ」と読ませるのは無理があるせいか、あるいは通称の監物が流布しているせいか、「つねもと」または「つねみき」と読まれたりする。幕末の十二代岩国藩主である。

 まず享年三十九の経幹の遺言を紹介したい。

「余はいま大病に罹り、命旦夕に迫る。ゆえにこれより各々へ遺言を申し渡す。各々はよく宗家に奉仕し、王事に勤労し、正義を確守し、武備を充実し、世子を輔導し、士民を愛撫せよ。この心得が肝要である。いま天下のこと半途にして、その行く末を見極めないのは残念の限りであるが、治命乱命とあればそれもやむを得まい」

 このしびれるような遺言をもって、経幹の人となりを察していただきたい。

 経幹は文政十二(一八二九)年九月に生まれ、十六歳で襲封し、慶応三(一八六七)年三月に逝去した。西郷隆盛より二歳下、吉田松陰より一歳上であり、同年(明治元年の前年)には高杉晋作・坂本龍馬が他界している。こう書けば彼の生きた時代がご理解いただけるだろう。

 経幹は内にあっては藩校養老館を設立して、文武両面にわたって人材を育成し、外にあっては江戸・京都・広島・萩・山口を訪問し、外交にその政治的手腕を発揮する。

 その一例を紹介すれば第一次幕長戦争前夜、広島国泰寺(今の白神社東隣)において、長州の禁門の変での行動ならび違勅を責める幕府糾問使の大目付永井尚志に対し、「長州の上京進発は藩の主論だが、暴発は三家老の独断である」と弁明し、毛利宗家へ累が及ばぬよう尽力している。

 経幹の活躍がなければ、幕末の長州史はまったく異なっていたであろう。





 毛利慶親(敬親)

 「もうりよしちか(たかちか)」と読む。十三代長州藩主である。この名の違いは「慶」が十二代将軍家慶の偏諱だから、幕府への謹慎を示すべく返上したからである。

 慶親は「そうせい侯」と揶揄されることがあるが、その理由について私見を述べたい。

 十八歳にて襲封した慶親は、翌年に村田清風を地江戸両仕組掛に任じ、さらに用談役に任じられた村田は、藩の借銀八万貫目を「三十七カ年賦皆済仕法」により返済しようとしたが、豪商の反対により、失脚する。

 次いで村田の後継者である周布政之助と反村田派の椋梨藤太・坪井九右衛門の連立により藩政改革を担わせるが、派閥争いに終始する。

 この村田の成功と失脚、ならびに連立政権の挫折が、慶親の脳裏に深く刻み込まれたのではなかろうか? 以降、身分の上下にかかわらず、慶親は家臣の意見を重用し、一任する。

 例を挙げれば、長井雅楽の「航海遠略策」、真木和泉(久留米水天宮の神官)の「御親征攘夷」、さらに俗論党や高杉晋作・大村益次郎・桂小五郎らの重用がそれである。

 しかし長井の公武合体開国論と真木の尊皇攘夷論は真逆である。長井は弊履の如く切腹に処せされ、真木は禁門の変にて討死する。

 自らの方針が振り子のごとく左右にぶれ、そのせいで何人死のうが恬淡とした様子なのは器の大きさか、器に水が入っていないからか、とまれ興味の尽きない人物である。

 しかし慶親の岩国藩主吉川経幹への信頼だけは揺らぐことがなかった。

 慶親は経幹を世子定広の後見人に任じて外交にあたらせただけでなく、上京進発・謝罪恭順・再征抗戦といった重要事項は必ず経幹を呼び寄せ、かつ三支藩主と世子を含めた六人の合議にて決定した。慶親は民主的? な人物だったんだろう。





 中老今田靱負

 「ちゅうろういまだゆきえ」と、読まれたし。何した人?と読者は思われるかもしれない。

 まず中老だが、これは家老格の下である。岩国では家老・中老が大夫、これに上士・下士と続き、これらが家禄を与えられて、武士と認められていた。

 家老の石高は千ないし七百、中老のそれは六百ないし三百と定められ、かつ家老は宮庄・吉川・今田・益田・香川の姓を有する者に限られていた。

 靱負は中老の末席三百石の粟屋雅楽の子として天保三(一八三二)年に生まれたが、二男だったために中老の上席六百石の今田帯刀家へ養子に出される。成長後は藩校養老館の一期生として学頭玉乃九華に漢籍を、教授二宮錦水に詩文を、師範有坂隆介に西洋砲術を学び、卒業後は藩庁(今の吉香神社の場所)に勤務し、取次方頭・大組頭・出頭役の職を歴任し、かつ藩主の名代まで務める。

 名代は藩主の一族か家老が任じられるのが通例だから、粟屋の出で、かつ今田とはいえ中老格の靱負が任じられたのは、藩主吉川経幹の信頼があつかった証しであろう。

 靱負は慶応二年(一八六六)五月、第二次幕長戦争前夜、広島国泰寺(今の白神社東隣)にて、幕府糾問使の大目付永井尚志の、岩国を長州から離反させようという思惑に対して、三支藩主名代とともに弁明に務めた。経幹に続くこの糾問は征長軍の戦力配備を遅らせ、逆に長州の戦闘態勢を整える時間稼ぎの効果があったと考えられる。

 だが幕府再征に備えて室木口先鋒隊長に任じられた靱負は病に倒れ、戦いに臨むことなく三十五歳で病死する。経幹他界のほぼ半年前である。

 靱負の名代返上願が『吉川経幹周旋記』に残されているが、それには病について何も触れられず、ただ自らの無能のみが書き連ねられている。靱負の美学と矜持を、私は垣間見る思いがした。





 七卿落ち

 文久三(一八六三)年、吉川経幹は兵庫警衛を任されていた毛利定広と交代すべく、慶親より京都滞在中の定広の世子後見人に任じられ、上京する。

 だが経幹が京へ着き、嵯峨野天龍寺にて旅装を解くと、定広はすでに帰国していた。しかも「長門少将(定広)御暇につき召され寄る処、速やかに上京、苦労思し召し候」と記された朝旨を受け、後日将軍家茂へ二条城にて拝謁し、「逗京大儀」と言葉を賜る。これで朝廷と幕府より京都滞在を経幹は余儀なくされる。

 堺町御門の警衛を任された経幹は、嵯峨野では交通の便が悪いと勧告されて小松谷の正林寺に移るが、その経幹を萩宗藩国家老の益田右衛門介と世子守り役である根来上総の二人が、毛利父子の黒印の押された親書を携えて訪ねる。黒印は公印に相当するが、その親書には御親征と立太子を指示する信じ難い内容が記されていた。

 経幹は難色を示すも親書には逆らえず、御親征の実現を目ざすが、これに乗じて真木和泉が大和行幸を唱え、討幕の烽火を上げようと画策する。この動きを事前に察知した薩摩と会津が公武合体派の公卿を抱き込み、禁裏の御門から長州を締め出す。これが八月十八日の政変である。

 経幹ら長州は関白鷹司邸に集結して対策を協議するが、三条中納言実美の意見により、小松谷の方広寺へ移る。

 だがこの選択を悔いた経幹は清末藩主毛利元純と協議し、三条らへ長州行きを建言する。これに従い三条ら七名の公卿が長州へ赴くが、七名は官位剥奪の勅が下るので、巷間は七卿落ちと称する。

 七卿のうち一人は筑前浪士平野国臣に担がれて脱出、一人は馬関にて病死して五人になるが、彼らの帰京願望が長州の上京進発論を加速する。

 とまれ経幹が歴史に名を残す最初の決断がこの七卿落ちであり、次が第一次幕長戦争回避である。





 高杉晋作来たる

 七卿を長州へ連れて来た経幹は、毛利慶親に呼び寄せられて山口に向かい、政事堂にて善後策を協議するが、何ら結論の出ぬまま岩国へ帰還する。

 ところがその経幹を、慶親の親書を携えて高杉晋作が訪れる。高杉は奇兵隊初代総督を解任(在任期間は二カ月半)されたが、知行百六十石を給せられ、奥番頭役へ任じられていた。

 高杉は菓子と鯣一箱を慶親からの見舞いの品として持参し、経幹へ拝謁を求めた。だが経幹は痔疾を理由に高杉に会おうとしなかった。それは高杉が兵一千人を率いて進発し、大和行幸に乗じて代官所を襲い、討幕を志した天誅組を支援し、大坂城を攻撃しようとたくらんでいるとの噂や、三田尻(現・防府市)招賢閣にかくまわれていた三条実美へ謁見し、上京供奉を願い出たとの報が岩国へ届いていたためである。

 だが慶親の親書は経幹へじかに手渡したいと、高杉がかたくなに主張したため、経幹はやむなく拝謁を許した。

 親書の内容は―。「上京一決」と藩論決定を告げ、続けて経幹が上京に「御不審」なのは承知している。しかし「十八日の変は全くその節に詰め合わせの者の越度とは思い申さず候に付き、不束ながら取調べの儀はまず一応申し立て置き、丹誠を尽くし、闕下(天子の御前)に伏し、七卿御帰洛、朝政御改復を願い奉るほか他念これなく」と、堺町御門警衛解任について経幹ら関係者の責任は問わないが、申し開きのために上京する。ついては上京と弁明の「その策略等の儀、精密にこれ無くては上京も相成り難きにつき、その辺のところを御相談に及びたく」、少しでも病が癒えたら「一日も早く」山口へ来てほしいというものであった。

 慶親の親書は残っているが、経幹と高杉が何を語り合ったのか記録されていないのが、実に残念である。





 西郷隆盛来たる

 西郷は征長参謀として二度岩国を訪れ、吉川経幹へ会っている。最初の会見を史料をもとに小説風に再現してみよう。

 「岩国さぁの御尊顔をば拝し奉り、恭悦至極に存じ奉ります。早速ながら言上仕ります。広島にて御尊藩御家老吉川勇記さぁより、毛利御本家三家老の首級を尾張大納言(征長総督徳川慶勝)さぁに差し出し、参謀諸士は厳刑に処し、さらに山口へおらるる五卿さまは領外へ動座をお願いして、長藩は恭順を示すゆえ進軍を猶予していただきたいと聞きもした。しかるにいまだに何ひとつとして実行に移されぬのはいかなる御存念によるものやと考え、尾張大納言さぁの内命により御当地へ罷り越した次第でごわす。御本家が御悔悟謝罪の儀を何ひとつ実行に及ばれんので、はなはだ不都合のことに相成っておいもす。三家老の首級をば片時も早く差し出され、参謀を御処置いただかねば、成る話も成いもはんでごわんど」

 西郷の目が炯々と光るのを、経幹は見た。

 「あいわかった。しからばなぜ長藩がその三点を実行に踏み切らぬのか、その訳を申そう。その方も知っているかと思うが、当家は毛利御本家の末家である。しかるにその三点はみな、御本家の裁断によって実現の運びに至る事ばかりである。ゆえに芸藩・御貴藩ならびに尾張大納言さまのいずれからか進軍猶予を承知した旨の回答を待って、おそれながらと御本家へ願い出るつもりでおったが、征長軍からは梨の礫どころか、すでに尾張大納言さまは大坂へ御出師されたと聞いたゆえ、そのままにしておいたのじゃ」

 経幹は一歩も引く気はない。条件不実行の責任が征長軍にあるかのように言い張った。

 禁門の変での武力衝突の責任を三家老切腹と四参謀斬首に留め、毛利父子へ累が及ばずに征長を止めようとする経幹の努力を、やがて西郷は受け止める。





 錦川万感

 錦川に架かる名橋、錦帯橋を幕末に渡った長岡藩士河井継之助の旅日記「塵壺」(東洋文庫257所収)の一節を紹介することで、このエッセーを終わりにしたい。

 安政六(一八五九)年九月、岩国を訪れた河井は「領分、家立ち、城市、家中の様子、如何にも富めると云う事なり」「地勢も宜しく、海田等も開け、好き所なり」「実に山海の利、羨むべき地勢なり」と褒めまくり、錦帯橋についても「聞きしに勝る趣あり」「絶えず掃除し、実に踏めば罰当る様なり」と賛辞を惜しまない。

 さらに吉川についても、「六万石は陪臣には過ぎたれども、元春の功を思えば、周防一国を領しても足ると思わず」と、岩国市民が感激しそうな私見を述べている。

 河井は藩主経幹には何も触れていないが、私は経幹と彼を補佐した中老今田靱負らの活躍が、幕末、特に第二次幕長戦争前夜、岩国の去就を朝廷・幕府・宗藩ならびに薩摩をはじめとする諸藩はいずれも無視できなかった、それほど経幹の政治力は輝いていたと、考える。

 第二次幕長戦争は芸州口・大島口・小倉口・石州口で交戦したので四境戦争とも呼ばれるが、大島を除く三地点が領外なのに注目してほしい。長州にとってこの戦いは国土防衛戦争ながら、戦場はほぼ領外であったという点が勝因の一つではなかろうかと考える。なぜなら戦場となった特に芸州藩にとって、迷惑千万な戦だったからである。

 最後に、幕末の長州といえば高杉晋作や桂小五郎ら、とかく萩出身の人物が注目されがちだが、岩国にも吉川経幹という英明な人物がおり、かつ経幹はその藩主という立場上、長州を大きく主導できたという点はもっと知られてよいと考える。

 「神か仏か岩国様は扇子ひとつで槍の中」、岩国の民謡「小糠踊り」の一節である。この「岩国様」こそ経幹である。





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