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コメント
1:リンク by kazusin on 2009/04/05 at 00:04:25

 メールありがとうございます。
10年以上前に見た
桜島と錦江湾を想い出しました。
それにしても
「錦川」に続くような
マニアっくさが嬉しかったです。
こちらからもリンクしましたので
今後ともよろしく
お願いしますね。

2:一番乗りだよ by 高遠 on 2009/04/05 at 00:25:29 (コメント編集)

kazusin 様

 一番のコメントありがとう。
 この作品は「錦川」より先に書いたんだけど、ワープロで書いたので、ずっと引き出しに眠っていました。スキャナーで読み取ってくれる人がいて、ワードに落とせたので、ここに公開することにしました。
 実はこのブログもほとんどその人に作ってもらいました。
 リンクしてくれて、ありがとう。

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月照入水

      一、
 鹿児島市中を甲突川(こうつきがわ)は西から東へ流れ、錦江湾に注ぐ。この川の浜寄りに架けられた高麗橋(こまばし)の欄干に差し掛かったところで、僧月照がこれから出向くつもりの上之園町(うえのそのちょう)の西郷吉之助(後の隆盛)の借家あたりを見やり、足を停めた。
 安政五年(一八五八)十一月十一日、早朝のことである。
甲突川の川面は朝の陽光に照らされてきらきらと輝き、眼に眩しいほどである。だがその浅瀬から沸き立った靄(もや)が白く川面を覆っていたため、水の色は判然としない。
 南国鹿児島とはいえ、旧暦十一月の朝は寒く、月照は川面から吹き来る風に身を縮ませ、瞬時たじろいだが、ようやく鹿児島まで来れた、西郷はんにもうすぐ会えるんだという思いが、月照の心を火照らせた。
「どないしはりましたんどす、和尚はん?」
 橋の北口に立ち尽くしたまま対岸を見つめ、動こうとしない月照をいぶかしみ、従者の重助が声をかけた。
 月照は重助に、いや何、これからあん人に会えると思うと嬉しゅうてな、という言葉が出かかったが、おぼこのごとく胸をときめかせている己を重助に覚られるのが気恥しく、
「……何でもありしまへん」
 と短く答え、橋の中腹へ歩みを進めた。

「ここどっしゃろか、和尚はん?」
 重助はそれとおぼしき家の門前に立ち、月照に振り向きざまに問うた。
「違うかもしれへんけんど、中に人がおいではる御様子やし……、訊いてみたらどないでっしゃろ」
「ほな」
 重助は屋内に向かい、声をかけた。
「ごめんやっしゃ。ここは西郷吉之助はんのお家どっしゃろか」
 だが屋内からは何の応答もない。重助はいま一度、屋内に向かって声をかけた。
 ややあって、年の頃、二十歳を幾つか過ぎた様子の娘が玄関に現れ、山伏姿の二人をいぶかしみ、
「おまんさぁは?」
 と、たずねた。
「はい。こちらは京都醍醐寺三宝院の使僧で、名を静渓院鑁水(じょうけいいんばんすい)と申され、それがしはその従僕で、名を藤次郎と申します。日高存龍院さまへ使いの儀あって当地まで参りましたが、京では西郷はんにえろぅお世話になりましたんで、一言ご挨拶をと思いまして、立ち寄った次第でございます」
 月照が醍醐寺三宝院の使僧だというのは、薩摩へ入国する旅手形を得るための方便である。西郷の家かどうか判然とせず、また西郷が在宅しているかどうかも不明なこの段階で、正体を明かす訳にはいかない。なお日高存龍院は島津領内の山伏の元締めの任にあった。
 月照は清水寺成就院の住職の地位に就き、五摂家の一つである近衛家と、薩摩藩主たる島津家との連絡役を担っていた。近衛家の実権を握っている老女村岡と月照が懇意であったために、西郷が月照へ接触を図ったのが、両者が知己となる契機であった。
 島津家は近衛家と縁が深い。それは一昨年の安政三年(一八五六)十二月、斉彬の養女の篤姫(後の天璋院)が近衛家の長たる左大臣近衛忠熈(ただひろ)の養女となった後に十三代将軍家定に嫁したことからも知れる。この篤姫を近衛家の養女とすべく、西郷は月照を通じて奔走した。
「ちょい、待っちくいやんせ」
 応対に現れた娘は奥へ下がろうしたが、その後ろ姿越しにぬっと首だけ出し、こちらを見すえる大眼(おおまなこ)と月照はかち合った。
 大眼の主はしばしきょとんとしていたが、がばりと起き上がるや、どかどかと玄関へ走り寄り、
「和尚、月照和尚でございもんそ」
 と、上ずった声で問うた。
 月照は微笑みを浮かべて、小さく首肯した。
 大眼の主、すなわち西郷吉之助は月照の両の掌を、その上からがっしと包み込み、
「ほんなこて、ほんなこて。夢んごたる」
 と言ったきり、あとは言葉にならず、月照の掌を固く握りしめて見つめ合っていたが、突然その手を放して膝まづき、
「許してくいやっせ。こん吉之助を許してくいやっせ」
 と述べて、床に頭を付けんばかりに低頭した。
「頭を挙げておくれやっしゃ、西郷はん。何ぞ、あんさんはわてに謝らにゃならんような悪い事をしたんどすか。わてにはさっぱし見当がつきまへんえ」
 この月照の問いかけに、西郷は平伏したま首を振って答える。
「何を仰せになられもんど。和尚に薩摩に来やっせっち誘うときながら、まったくのほったらかしで、……ほんなこて、すまんこっじゃち思うとります。じゃっどん、ここまで来やるとに、どしこ苦労されたかっち思うと、こん吉之助は、和尚ん顔がまともに見いもはんです」
 月照は苦笑する。
 西郷は当年三十一、月照は四十六と、月照の方が一回り以上も上であり、また角力取りを思わせるほど容貌魁偉ながらも、なんとも澄み切った目をした西郷に、月照は常に好感以上のものを感じ、心から信頼を寄せていた。
 しかしながら月照は、西郷に会ったならば愚痴の一つくらいは言ってやりたいと思っていたのだが、肩をすぼめて縮こまった五尺を優に越えた大男を眼前にしては、そんな思いは飛散してしまった。
 西郷が月照へともに薩摩へ下ろうと誘ったのは、同年九月七日、京都で梅田雲浜(うんぴん)が幕吏に捕縛されたのがきっかけである。梅田雲浜は後年、史家が安政の大獄と呼ぶ弾圧の犠牲者、第一号である。
 彼は若狭小浜出身の儒学者だが、尊王擁夷を唱え、十三代将軍家定の継嗣問題では水戸藩主徳川斉昭の実子である慶喜を擁立する一橋派に与(くみ)していた。
 急逝した薩摩前藩主島津斉彬(逝去は同年七月十五日)は一橋派の急先鋒であった。
 西郷は斉彬の薫陶を受けて、庭方役、徒目付(かちめつけ)に抜擢され、京や江戸において、薩摩藩の対朝廷ならびに対幕府工作に従事していたが、同年四月二十三日、大老へ就任した井伊直弼が七月五日に徳川斉昭を無断登城の咎(とが)で謹慎を命ずるなど一橋派への弾圧を始めたために、勤皇僧として名を知られていた月照へ、幕吏の手が伸びるのを危惧した近衛忠熈が、月照を奈良の知人へ送り届けるよう西郷に命じた。
 奈良の興福寺は京の清水寺の本寺であり、また近衛家の家祖である藤原氏の氏寺である。そこで奈良ならば京より安全だろうと近衛忠熈は考えたのだが、竹田街道に追手の姿を見聞した西郷は、月照を薩摩で匿いたいと考え、大坂より海路、西を目指した。
 下関へ到着した両名は豪商白石正一郎の庇護を受けたが、前藩主斉彬の父である斉興が帰国の中途で筑前に滞在中と知らされ、月照を薩摩に連れ帰ることは西郷の独断であったために、藩の許可が必要と考えた西郷は月照と筑前若松で別れ、後事を有村俊斎(後の海江田信義)に託し、先に薩摩へ帰還した。
 しかし西郷が月照を託した有村も何を思ってか、月照を博多で放り出して薩摩へ先に帰還したために、福岡藩士平野次郎(名は国臣)が月照を薩摩まで引率することにあいなった。
「まあ、道中の話はおいおい。……ところで上がらしてもろうてもよろしゅうおすか」
 月照は低頭したままの西郷へ優しく声をかけた。
 この問いかけに西郷は自らの迂闊を恥じ入り、月照を手招きして室内に招き入れ、かつ応対に出た末の妹のお安に、客人に茶を給するように命じた。

 室に座した月照は西郷に問われるまま、若松で西郷と別れて以来の道中の辛苦を、決して西郷を責めるでなく淡々と語り、また平野にいかに世話になったか訥々(とつとつ)と語った。
 月照は若松から博多、太宰府を、筑前の有志に匿われながら転々とし、筑後からは船にて筑後川を下り、かつ柳川の小保浦(おぼうら)より船を乗り換えて有明海を下り、薩摩を目指した。なお僧侶である月照を三宝院の使僧だと偽って山伏姿に変装させたのは、難関である薩摩の関所を越える旅手形を偽造するために、二人を引率した平野が考案した。
 月照は小柄で、性格は温厚、かつその声はあくまで柔和である。それだけに西郷は余計に、月照と離れたことが悔やまれてならなかった。
 西郷は月照のやつれた頬と、薄く髪の伸びた坊主頭を見やるや、
「あん俊斎ん馬鹿ちんが、……」
 と、顔を歪めて吐き捨てた。
 西郷は激すると、悪し様に人を罵る習癖がある。それが温厚な月照には、西郷に対する唯一の不満であった。
「まあ、あん人はあん人で考えんあってのことやろから、そないあん人のことを悪う言うたらいけんえ」
 月照は西郷を優しく声をかけた。西郷は恐縮するばかりである。
「何にしたっちゃ和尚、こん鹿児島まで来やったからにゃ、おいがいけんしてでん和尚をお守りしもんすよって、大船に乗った気でいてたもんせ」
 西郷は月照に向かい、大きく頷いてみせた。それに対し月照は軽く笑みを浮かべたが、すぐさま顔を引き締め、胸中を離れない不安を西郷へ質した。
「西郷はんはわてが薩摩に来ることを、御老公(前藩主斉彬の父である斉興を指す)に許しを貰う言わはって、別れましたんやけんど、御老公はわてがここに来てもええって言わはったんどすか。……わてはそれが聞きとうて、今日は平野はんにも国の人にも遠慮してもうて、重助だけ連れて来たんどす」
 月照のこの問いに西郷は思わず窮した。
 若松で月照と別れた西郷は肥後の佐敷で、江戸より薩摩へ帰国する斉興に追いつき拝謁を願い出たが、誰も取り次ごうとはしない。そこで西郷は城代家老の島津豊後をあたったが、月照保護について帰国後に協議するの一点張りで、まうたく埒(らち)が開かなかった。
 また鹿児島帰着後に西郷は、国家老の新納駿河(にいろするが)に月照保護を申し出たが、斉彬の遺言に基づき新藩主たるべき茂久(もちひさ、斉彬の異母弟である久光の実子、斉彬の遺言により急逝直前に斉彬の養子となる)の藩主襲封がまだ幕府の許可を得ていないことを理由に、西郷の要請は一蹴されていた。
「御老公にはまんだ目通りがかないもはんで……。じゃっどん、会(お)うちくいやったら何とでん。……御老公はお家(島津家を指す)と近衛家の関わりも、和尚がどげな大事か人かっちゅうこつもよおわかっておいやすもんで、案ずるこつはあいもはん。いけんしたっちゃ、和尚ん体はおいが身命を賭して、お守りしもんど」
 西郷は大きく首を縦に振った。
「あんじょお頼みます、西郷はん」
 月照は床に両手を付け、軽く頭を垂れた。それを見やった西郷の胸中に、先君斉彬公が生きておいやったら、何も案ずることはなかつにという思いがよぎった。

         二、
 日高存龍院の屋敷へ戻った月照と重助を、薩摩藩の役人が待ち構えていた。関わり合いを嫌った存龍院が月照の入国を藩庁へ通報したためである。藩吏は有無を言わさず、月照と重助ならび平野次郎を田原屋へ連行した。
 田原屋は市中柳之辻の田原助次郎という者の屋敷である。他国から賓客や使者が薩摩を訪問する場合は、この屋敷に宿泊させていた。
 月照らの田原屋連行を指示したのは、国家老の新納駿河である。彼は月照を西郷ら下級武士から隔離すべきだと考えたが、前藩主斉彬と近衛家の親密な関係を知悉していただけに、一応は賓客の扱いとして、月照らを遇することにした。
 その日の昼過ぎ、有村俊斎が西郷の借家を訪ねた。
 有村は平野からの手紙を受け取って月照の鹿児島到着を知り、すぐさま日高存龍院の屋敷を訪ねたのだが、その時はもう月照らは田原屋へ連行された後だったので、有村はその足で西郷を訪ねた。
 有村から月照が田原屋へ連れ去られたと聞かされた西郷は、藩が自分たちと接触させないための措置だと考え、怒りを顕にした。
 西郷と有村はさっそく藩庁へ出向き、月照への面会と保護を要求した。しかし面会・通信は一切禁止と、剣もほろろに断られたために、ひとまず帰宅し、大久保一蔵(後の利通)ら精忠組の二才(にせ、青年のこと)を集めて善後策を協議した。
 精忠組とは西郷ら下鍛冶屋(しもかじや)郷中(ごうちゅうは方限:ほうぎりと呼ばれる各地域の青少年による自治教育機関のこと)の二才を中心に結成された、藩内の下級青年武士集団の名称である。精忠組の結論として、月照保護には何より藩重臣への働きかけが肝要であると決し、面々はそれぞれ伝手(つて)を頼って藩重臣への接触を試みたが、何ら有効な手段を講じられぬうちに空しく四日が過ぎ、逆に西郷は裁許掛(さいきょがかり)の梁瀬源之進から呼び出しを受けた。裁許は訴訟の判決書のことだから、裁許掛は現在の職名では裁判官に相当すると考えられる。
 西郷は意気揚々と梁瀬の宅を訪ねた。

「議を言うな、吉之助」
 月照を薩摩藩が保護するのは亡き斉彬公と近衛家の関係から考えて当然の義務であるという西郷の主張を、梁瀬が遮った。議を言うなとは、薩摩人が好んで口にする語旬である。理屈を言うなという意味だが、口より先に行動を起こせという意味も含んでいる。
「議じゃあいもはん。道理でごわんど。うんにゃ、人としての本分ち言う方がよかかもしいもはん。月照和尚をお家が匿うとは」
「月照ちゃ誰な?」
 梁瀬の問いかけに西郷は首を捻った。
「さっきから月照、月照ち。……日高ん山伏とこに来たつは静渓院鑁水ちゅう名ん山伏じゃろうが。日高が会うて、もう用が済んだけえ、京さぁけえっちもらおうちゅうとが、どこがおかしかや?」
 この梁瀬の言に西郷は、月照をあくまで山伏として処理しようという藩の思惑に察した。
「山伏じゃなかこつは、おまんさぁらもよおう知った上で、田原屋に移したとございまっしょ」
「いや、知らん。ないも届けん出とらんし、お家にいけんしてくれっち、ないも申さん」
「言うたら、助けてくいやるお心算(つもり)でごわすか?」
 西郷の問いかけに梁瀬はしばし黙したが、
「あん坊主は火中の栗たい。いまはお家が大事な時じゃっちゅうこつは、おはんでんよおわかっとろうが。上んもんに火の粉が被らんごつ、下んもんは火ば起こさんごつすっとが、下んもんの務めじゃなかか、吉之助」
 と、西郷を諭した。
「じゃっどん、あんしは……」
「うぜらしかど(うるさいぞ)、木強者(ぼっけもん)が。もう決まったこつに、あいやこいや言うな」
 木強者とは肝っ玉の太い男を指すが、面と向かって言われる場合は、融通のきかない頑固者といった侮蔑的なニュアンスが含まれる。
「ないが決まったとでごわすか?」
 西郷が撫然として梁瀬に問う。
「……あん坊主は東目(ひがしめ)に送るこっに決まった」
 西郷は驚愕し。思わずあんぐりと口を開け、梁瀬の顔を見つめた。
 東目送りとは、薩摩藩の東の出入口である国境の東目口まで送り、日向へ追いやることを云うが、日向へ送らずに国境で斬首するのが公然の秘密だったからである。故に東目送りは陰では永送りとも呼ばれていた。
「心配すんな、斬りゃあせん。ふ(運のこと)んよけりゃ、目明かしに捕まらんと京まで辿り着きもんそ」
「目明かしが捜しとるこつを知って、おまんさぁらは……」
 西郷は絶句する。
 肥後の水俣へ幕吏が待機し、その手先である筑前の目明かしが鹿児島へ向けて放たれたという情報を藩庁は掴んでいた。だが月照を目明かしに引き渡そうという気は藩庁にはさらさらない。ただ火の粉が島津家にかからぬようにとの、それだけの一念である。
 梁瀬は西郷の思いを意に介さず、告げる。
「よかか吉之助、うんにゃ三助じゃったな、おはんの名は」
 西郷は帰国後に藩庁より三助と改名するように命じられた。幕命に背いた西郷の累が藩に及ぶことを、上層部が懸念したためである。
 梁瀬は顔を殊更にこわ張らせて、
「順聖院(じゅんしょういん:斉彬の諡:おくりな)のおらした時とおんなじっち思うなよ。重富さぁ(久光を指す。重富は久光の在所)がそん気になりゃ、おはんもお尋ねもんを匿ったけんち言うて、目明かしに引き渡すこつも出来っとぞ」
 と、西郷を脅した。
「東目送りは重富さぁの指示でごわすか」
 西郷がすかさず問う。
「だいもそないなこつは言うとらん」
 梁瀬は憤懣(ふんまん)やるかたない様子で炯炯と西郷を見据えた。
 だがその後、梁瀬は自らを鎮め、傍らに置いていた白木の桐箱を徐に開き、
「藩命を申し渡す。西郷三助、控えよ」
 と、声高らかに言い放った。
「はっ」
 西郷はやむなく、平伏した。
 梁瀬が書状を広げ、朗読を始める。
「僧静渓院鑁水ならびにこれに随う二名は、十六日未明迄に鹿児島城下を退去相い成る候ふ可し。 西郷三助は三名に同道し、遺漏なく国境(くにざかい)まで引率せ被る可く候へ。西郷三助へは路銀十両を給す。なお案内役として足軽肝煎(きもいり)役坂口吉兵衛を差し遣わし、かつ便船は下町会所にて按配し、福山(大隅半島の北端の町)まで乗船せ被る可く候へ。以上だ」
「明日ん朝までにでごわすか」
 西郷が首を挙げて問う。
「じゃいよ。船はいつでん出立できるごつ、すでに宿ん側に繋いどっ」
……何とも手回しん良かこつ。
 ここに至って西郷は、藩庁には月照を匿う気なんぞ端から無かったことにようやく気づいた。
「いけんした、西郷。藩命承諾の返事ばいっきせえい(すぐにしろ)」
 梁瀬が促す。
「……畏くも、承りまして御座候」
 そう返答し、股勤に頭を垂れた西郷の唇の端がかすかに震えた。
 梁瀬は大仰に鼻息を一つ漏らし、安堵の面持ちを隠そうとはしなかった。

 梁瀬の屋敷を辞した西郷はまっすぐ先君斉彬公が弔われた福昌寺へ向かった。
 斉彬の墓前に額づき、西郷は心中を斉彬へ語りかける。
……おいは殿ん許へ参ります。
 殿が逝んでまわれたっち知った時、やっぱ追腹(おいばら:殉死のこと)を斬っとけば、こげな生き恥を晒すこっもなかったかち思うと、そいが悔しゅうてないもはんです。和尚を薩摩から追い遣ってもうたら、おいは陽明公(近衛忠熈を指す)に顔向けができもはんです。そげな不義理なこつばして、ないごておい一人がこん鹿児島で、いけな面(つら)さげて生きていきもんそか……。行っが。……殿ん許い行っが。
 西郷は自らの決意を先君斉彬に報じた。
 それから西郷は祖先の墓の在る南林寺へ赴き、弟妹を遺す不孝を墓前に詫びた。

 その頃、田原屋にて軟禁状態にあった月照は、平野国臣へぽつりと決心を語った。
「平野はん、聞いといてもらいたい事があるんやけど、いま言うもよろしゅうおすか?」
「何でござるか」
 平野は月照のただなならぬ気配に身構えて問うた。
 月照と平野は田原屋に軟禁され、食事、寝具その他一切の丁重なもてなしを主より受けていたが、藩吏が常に監視し、面会ならび外への通信は一切禁じられていたために、無聊(ぶりょう)を囲っていた。
「わてのことを皆はん、月照、月照って呼びはりますけど、わてのほんまの名あは、忍向っていいますのんや、知ってはりましたか、平野はん?」
 月照が訥々と語り出した。
「いいえ」
 平野は首を振って応える。
「ほうでっしゃろな。昔まだ若うおました時に、戯れにこないな歌を詠んだことがおましてな」
 そう言うや月照は息を整え、歌を吟じた。
「今日よりは刃に向かふ心もて、願はくば身をやぶらじとこそ……。この歌の心はわかりはりますか、平野はん?」
 平野は黙したまま、大きく首を縦に振った。
「刃に向かふ心、これが忍向の名あの訳どす。……わては弱い男どす。西郷はんはともかく、こん国はわてがここに来たんを、あんまし喜んではいへん御様子どっしゃろ。ほやさかい、わてがもしお上の目明かしに捕まってもうたら、わては命惜しさに、ある事もない事もぺらぺら喋ってもうて、宮家や陽明公はんにどないな迷惑が掛るかもしれまへん。ほやさかい、わてが捕まりそうになったら、平野はん、あんさんはそん前にわての首を……」
 月照は平野から眼を転じ、床の間に掛け置いた平野自慢の毛鞘の大太刀を指さす。
「あん刀で刎ねてもらいまへんか?」
 平野は月照のあまりの突然の申し出に、言葉が出ない。
「よろしゅうおすか、平野はん。刃に向かふ心どっせ。……頼みましたえ、平野はん」
 月照は平野に向き直り、澄み切った眼で平野を見つめた。
「…………」
 平野は何も言えず、こくりと小さく肯んじた。それから平野は立ち上がり、月照に背を向けるや、拳の甲で両瞼をそっと拭った。

          三、
 帰宅した西郷は弟妹へ、また旅に出ると告げるや、水入らずの夕餉を共にした。
 帰宅の道すがら、西郷は大久保ら郷中の者に会って、出立を告げたいという思いにとらわれたが、自らの決意が覚られるのを危惧して、まっすぐ帰宅した。
 夕餉を済ませ、旅支度を整えた西郷は弟の吉次郎に灯りを持たせ、田原屋へ向かった。
 梁瀬より連絡を受けていた藩吏は、西郷を何ら質さずに、月照と平野の居室へ案内した。
 月照と平野はすでに床に入っていたが、西郷の来訪を聞かされるや、嬉々として跳び起き、寝具を片付け、灯りを点した。
 室に入った西郷はまず平野に、月照を鹿児島まで引率してくれた礼を丁重に述べた。平野は当年三十、西郷より一歳年下である。年も近く、かつ勤皇の志を同じくする二人は京において知己となっていた。
 西郷は平野から眼を月照へ転じ、何かを語りかけようとしたが、平野を憚って何も言い出せない。気を利かせた平野が、
「茶ばもろうて来るけん」
 と言って立ち上がり、室を西郷と月照の二人だけにした。
 西郷は月照に会ったならば、ああ言おう、こう言おうと考えていたのだが、いざ二人っきりになると、何も言えない。仏頂面をして押し黙ったままである。
 西郷の苦衷を察した月照が先に口を開いた。
「お国は、わてにどないして欲しい言わはりましたんどす?」
 この問いかけに西郷はしばし黙したが、
「国から出てけっち、そげん言うとります」
 と、消え入りそうな声でぽつりと答えた。
「……そうどすか」
 月照はさすがに落胆の表情を隠せない。
 西郷は平伏する。
「許してくいやっせ。おいが安請け合いばしたばっかしに、和尚にごっつう迷惑ばかけち。じゃっどん、和尚が国を追い出されちもうたら、おいは今度こそ、……」
 そう言うや西郷は顔を挙げ、月照を見つめて小さく頷いた。
……死ぬ気やな、こん人は。
 月照の脳裏に、斉彬の急逝後に京の鍵屋で会った西郷の情景が甦った。
 鍵屋は錦小路上ル柳ノ馬場に位置し、西郷ら薩摩下級藩士が常宿としている旅籠である。斉彬の急逝を知った西郷は清水寺成就院を訪ね、月照へ斉彬の急逝を知らせるとともに、自らは薩摩へ帰国するので、別れを告げに来たと述べた。
 西郷の態度に遅ればせながら殉死の覚悟を察した月照は急ぎ鍵屋まで駆け付け、亡き斉彬公の志を継ぐのはあんさんしかおへん、死んじゃいけんと、言を尽くして西郷を翻意させた。
 斉彬の遺志とは雄藩連合による幕閣刷新、貝体的にいえば水戸・越前・宇和島・土佐・長州・筑前・薩摩の藩主同盟による大老井伊直弼の排斥である。斉彬はそのために藩兵三千を率いて上洛する予定を立て、その練兵を天保山で行っている最中に病に斃れた。
 西郷は斉彬の引兵上洛の露払いとして七月十日より京へ乗り込んでいたが、月照は斉彬の急逝を知って動揺する西郷を殉死させないためには、西郷に自らの必要性を自覚させるのが一番だと考え、水戸藩へ送る内勅の使者に西郷を選ぶよう、近衛忠熈へ進言した。
 内勅とは天皇の発する勅諚を受ける意思があるがどうかを打診するために、勅諚に先んじて摂関家が発する宣旨のことだが、その内容は徳川斉昭の声望を頼み、まず斉昭へ勅諚を賜えて雄藩連合の盟主とし、この連合の圧力により、大老井伊直弼を罷免しようというものであった。
 八月二日、京を早駕籠にて出立した西郷は五日後の七日に江戸へ着き、小石川の水戸藩邸に江戸家老安島帯刀(あじまたてわき)を訪ねた。だが安島より大老井伊の弾圧は厳しく、烈公(斉昭を指す)は勅諚を受けないだろうと聞かされた西郷は内勅を開くことなく、これを有村俊斎へ託して京へ急行させた。
 だが京では西郷の返事を待たずに、在京の水戸藩留守居の鵜飼吉左衛門へ勅諚を手渡した。鵜飼は息子の幸吉を江戸へ下向させ、家老安島へ勅諚を提出した。
 そこで安島は藩主徳川慶篤(よしあつ:斉昭の嗣子)へこれを報告し、かつ請書(うけしょ)を鵜飼幸吉へ渡し、幸吉はそれを携えて京へ帰還した。
 ところが水戸藩主徳川慶篤はあろうことか、この勅諚を列藩に伝達してもよいか幕閣へ伺いを立てたため、自らの排斥の画策を知ることなった大老井伊は激怒し、この勅諚下賜に関した公家、志士の探索に乗り出し、その第一号として梅田雲浜が京で捕縛された。彼の捕縛により、危険を察した近衛忠熈が月照を奈良へ送り届けるように西郷へ命じ、かつ奈良は危険だと西郷が判断したのが、月照が薩摩まで来るに至った契機である。
 それゆえ月照は、自らの存在が薩摩藩にとっては、招からざる客であるとの認識を常に抱いていた。
「いつまでに出て行けって、お国は言うてはるんどす?」
 月照は西郷に何ら表情を変えることなく問うた。
「今晩中に、……」
「えらい急どすな」
 月照はさすがに顔色を変えた。
「和尚らを船に乗せて、薩摩潟(錦江湾を指す)ん北、福山まで移し、そん後、国境まで引率せよっち、おいに藩命が下(くだ)いもした」
「船?」
「はい、船に乗して日向さあ、追い遣るつもりでごわんど。じゃっどん、和尚が薩摩から去(い)んでまわれたら、そん時には……」
「そん時に、何どす?」
 月照は西郷が何を言いよどんだのかを充分に察していながら、あえて質した。
 腹を斬ると言えば、諫(いさ)められるだけだとわかっている西郷はただただ黙す。
「わてと一緒に西郷はんは、どこまでも行ってくれは、しまへんのか」
 月照が寂しげに問う。
 西郷は月照の藩外随行の許可を藩庁からは得ていない。だが西郷は瞬時にして、藩命に背いても月照を、肥後か筑前の、より安全と思える場所まで送り届けよう。そしてその後に自らは薩摩へ帰ることなく、すぐさま腹を斬ろうと、覚悟を決めた。
「ないがあってん、行っが」
 西郷へ月照へではなく、自らに言い聞かせるように呟いた。
……肥後ん長岡さぁがよかかもしれん。
 藩外随行を瞬時に決意した西郷の脳裏を、肥後藩国家老長岡監物(けんもつ)の顔が掠めた。長岡は西郷が薩摩へ帰還する途中に病臥中ながらも会ってくれ、月照保護に協力を申し出てくれた人物である。だが西郷が、月照は島津家が預かるべきだと筋論に固執したために、その話は立ち消えになっていた。
……長岡さぁに和尚をお願いした後、こんおいは腹ば。
 月照は西郷の心中が掌に取るように読める。
……こん人には死んで欲しゅうない。ほやけどどない言うたら、こん人は……。
 西郷の責任感が人一倍強いのを知り抜いている月照は思いを巡らせる。しばし思案の末に月照が呟いた。
「わては今晩、船から海に落ちます。ほやさかい西郷はんは、どうかわての分まで生きておくれやす」
 西郷は驚きのあまり、言葉が出ない。
 西郷はしばし黙した後、
「和尚一人を死なして、ないごておい一人がおめおめと……」
 と呻いたが、その時、障子を明けて、盆に茶を載せた平野が入って来た。
 平野は二人に茶を勧め、
「話は済んだとですか?」
 と問うた。二人はしばしためらったが、黙して小さく頷いた。
「ほいで、お国は和尚ば匿ってくれるこっになったとですか?」
 平野がさらに西郷に問う。
 西郷は首を振って低頭し、月照へ語ったと同じ事を平野へ告げた。
「そげんですか。……まあ、そげなこっじゃなかろうかて、思うとりました」
 平野は小さく嘆息をもらした。
「ばってんか、いますぐ出て行けっちゃ、えらい情んなかこつを、お国は言いんしゃるとですなあ」
 平野は不満を隠そうとせず、西郷を見つめる。西郷はその視線が耐えられない。
「じゃっどん、おいはお二人と一緒に、肥後でん、筑前でん、どこいでん行きもんそ。そんくらいしかでけんこんおいを、どうか笑うてくいやっせ」
 西郷は身を縮めて、平伏した。
 だがその心中で西郷は、
……和尚一人を死なしはせん。和尚がいけんしてん海に飛び込むちゅうなら、そん時はこんおいも一緒に、……。
 と、錦江湾への入水を決意していた。
「西郷しゃん、頭ば上げてくれんですか。……まあ、まあ、よかたい。愚図愚図しとったら、西郷しゃんに余計に迷惑がかかるとでござっしょ」
 西郷はこの平野の問いに否とも応とも答えられずに、またも身を縮めた。
 月照は西郷から視線をそらして立ち上がり、隣の部屋に寝ていた重助を起こし、身仕度を始めるよう命じた。

        四、
 満月の夜である。
 星辰煌々たる夜である。
 錦江湾は凪いでいた。
 海面を吹き来る風は微(かそけ)く、舟は白帆を立てていたが、帆は満々と張るにはいたらず、専ら舟手の櫓(ろ)に身を委ねて左に鹿児島城下を、右に桜島を眺めながら、波静かな錦江湾を北へ進んでいた。
 両岸から見える灯りはいずれも遠く、ただ月明かりだけが頼りの夜の海を、舟手の漕ぐ軌跡が一条の白い帯となって、鏡のような海面を切り裂いた。
 藩庁の用意した船は荷駄を運搬する伝馬船であったが、苫には酒肴が用意されていた。
 苫の中央には火鉢が置かれ、炭火が赤々と焚かれ、鉄瓶の湯を沸き立たせていた。
 沈みがちになる四人を気遣って、肝煎役の坂口は黒千代香(くろぢょか)を手にし、皆にしきりに酒を勧めた。
 西郷は酒をあまり嗜なまぬのだが、今夜は勧められるままに盃を口に運んだ。
 酒は芋焼酎のお湯割である。だが今夜のお湯割は氷水のごとく、西郷には冷たく思えてならなかった。
 月照は沈むでなく、浮かれるでなく、淡々と盃を口にしていたが、坂口に向かい、
「お役目、ご苦労はんどす。お役人はんにこないな歌を詠んだんやけど、聞いてもらえまっか?」
 と、声をかけた。
「ほう、それがしにでござるか?」
 坂口が月照へ向き直り、問う。
「へえ」
 そう言うや、月照は腰の矢立てから筆を取り出し、したためつつ吟じた。
「舟人の心つくしの波風の/危うき中を漕ぎぞ出でぬる。……どうどすか?」
 この歌の危うき中とは、幕吏の追手がすぐそこまで迫っていることを指す。
「いやはや何とも。恭悦の極みでござる」
 坂口は白髪が交じり、薄くなった頭を下げた。
 その坂口を見やり、この期に及んで藩の小役人にまで気を配る月照の人間性に、西郷は改めて感銘を覚えた。だが西郷は、そんな月照を一人だけでは決して身を投げさせまいと、警戒の念を新たにした。
 酒好きで、かつ陰気臭いことの嫌いな平野が、場を盛り上げようとつとめて明るく振る舞い、いささか酩酊した平野は懐中から横笛を取り出し、それを吹いて皆を驚かせた。
 平野の嘯々(しょうしょう)たる笛声が船中に響く。
「何べん聴いても、平野はんの笛はよろしゅおすなぁ」
 笛を吹き終えた平野へ、月照が手をたたきながら感想をもらした。
「恥ずかしかあ。鄙人(ひなびと)の手慰みですたい」
 平野はそう言いながらも、嬉しそうな面持ちを隠そうとはしなかった。
「ほんならわては、平野はんへ何のお返しもできまへんさかい、平野はんへも、一つ歌も詠みまひょか」
「そりゃ、ありがたか」
 平野は月照へ眼を輝かせて、月照が吟ずるのを待った。
「答ふべき限りは知らじ不知火の/つくしにつくす人の情けに」
 月照は先ほどと同じく歌をしたため、かっ吟ずるや、平野を見て軽く微笑んだ。
 この歌の不知火は筑紫の枕詞である。また不知火は知らぬと、つくしは筑紫と尽くしが掛けてある。不知火の海(現在の有明海と八代湾)を共に下り、薩摩まで心を尽くして導いてくれた筑紫の人平野への謝意を詠んだ歌であった。だがこの歌は言外に、平野へ対する告別の意も含んでいたのだが、それに平野は気づかなかった。
 筑紫と尽くしが掛けてあることに気づき、すっかり嬉しくなった平野はそれから揚々と筑前今謡を歌い、それにつられて坂口も薩摩節をうなり、西郷は平野へ勧められて角力甚旬を披露した。
 皆がつとめて明るく振る舞い、藩の処置に対する不満も、今後の行く末に対する不安も、誰も口にしようとしなかった。
 宴たけなわの折、月照が無言のままひょいと立ち上がった。
「和尚、いずこへ?」
 西郷がすかさず問う。
「小用どす」
 月照は西郷を見下ろし、短く答える。
「……おいも、行きもんそ」
 西郷も立ち上がり、二入は連れ立って外へ出、海面に向かって尿(いばり)を垂れた。
 寒気を含んだ夜風が二人の裾を揺らす。
「ええ、月どすな」
 放尿を先に終えた月照は桜島の中天高くに輝く満月を見上げ、感嘆の声を上げた。
 西郷も満月を見上げたが、知れず月照へ近寄り、その腰をしっかと抱いた。
 その行為が月照の身を寒風から避けるためなのか、それとも月照一人を入水させぬための行為なのか、西郷は自らの行いながら判然と認識できなかった。
 西郷は月照に聞われぬのに、鹿児島城下を指さし、あのあたりは何々、それから船の舳先の向こうの山々を指さし、あれは霧島、その向こうが高千穂と説明した。それは生まれ育った薩摩の国へ、別れを告げるかのような口ぶりに月照には聞こえた。
 船は竜ヶ水の沖合を過ぎ、大崎ヶ鼻へ差しかかった。
 月照はまたも矢立てから筆を取り出し、
「西郷はんへも歌を贈りたいと思います。テニヲハはまだ整うてまへんが、もろうてくれはりまっか?」
 と、問うた。
「無論でござる」
 西郷は大きく頷いた。
 月照がしたためつつ吟じる。
「曇りなき心の月の薩摩潟/沖の波間にやがて入りぬる。……それからもう一首。大君のためには何か惜しからむ/薩摩の瀬戸に身は沈むとも。……どないどす?」
 この一首めの月は月照と満月が掛けてあり、また二首めの大君は天皇を指す。二首とも入水を決意した辞世の歌である。
 西郷は月照から筆と紙を借り、しばし思案の末に、
「二つなき道にこの身を捨て小舟/波立たばとて風吹かばとて」
 と、歌を返した。
「あきまへん。西郷はんはあきまへん」
 西郷の歌の意を解した月照がすぐさま首を振り、西郷を諌めた。
 だが西郷は、
「もう決めもした。どこいでん、和尚ん行きやるとこに、おいは随(つ)いて行きもんそ」
 そう告げるや、月照の腰に再び腕を回した。
(そいが和尚においん出来っ、せめてもん)
 西郷は心中を月照へではなく、夜の海へ告げる。
(……お詫びでごわんど)
 腰を強く西郷に抱かれて、月照の心中に知れず愉悦が広がった。それは月照自身、まったく予期していなかった感情であった。
「いまは、取り合えずいまはまだあきまへん。平野はんも他の人も、まだ起きておいでやす。皆が寝静まってからやないと……」
 上ずった声でそう告げるや月照は西郷の腕を振りほどき、逃げるがごとく苫へ戻った。
 一人残された西郷はしばし、はるか遠くになった鹿児島の城下へ眼を遣っていたが、おもむろに両の掌を合わせて瞑目し、その後に苫へ戻った。
 宴はいつ終わるともなく続いたが、そのうちに平野が酔い潰れて寝入ってしまい、それを見た坂口が他の三人にもやすむように促し、こんくらいしか用意できもはんでしたと申し訳なさそうに言いながら、夜具を並べた。
 夜具に身を投じた月照は胸の昂りを抑えることができなかった。
……西郷はんがわてと死んでくれる言うてくれはった。ほやけど、西郷はんには、いや西郷はんやないと出来へん仕事が、この国には仰山おます。ほやけどあん人はどないわてが言うたら、思い留まってくれはるやろ。死ぬんが怖うなったってわてが言うたら、あん人は身を投げるのをやめはるやろか。……いや、そないな事は言えしまへん。そないな事を言うたら、あん人はわてを馬鹿にされるやろ。あないな歌まで贈っといて、土壇場で憶病風に吹かれたんかあ言うて。西郷はんにそない思われるくらいやったら、わては……。
 思いを巡らす月照の耳を、
「和尚、そろそろ」
 と呼ぶ西郷の小声が破った。
 月照は起き上がり、西郷を見つめて婉然と微笑み、小声で応じた。
「へえ、ほな行きまひょか」

 船の舳(みよし)まで二人は手をつないで向かった。西郷が月照へ手を差し伸べ、月照がその手をしっかと握り返した。
 舳先に先に立った西郷は月照を振り向き、
「お覚悟は?」
 と、問うた。
「出来てます」
 月照は従容として答える。
「いざ」
 西郷は月照を引き寄せた。
 月照は西郷の胸に顔を埋める。
「きつう、抱いておくれやす」
……何を言うてるんやろ、わては?
 月照の胸中に羞恥(はじらい)がよぎったが、堪えきれず、
「あんたはんと会えて、わては嬉しゅうおした」
 と、もらした。
 西郷は月照をきつく抱きしめ、
「おいもでごわんど」
 と、呟いた。
「きつう抱いておくれやす。もっときつう」
 月照が訴える。
 西郷は両腕にさらに力を込めて、月照の痩身を抱きしめた。
 月照は身を西郷に委ね、足を浮かせる。
 西郷は月照を抱え上げたまま舳の縁(へり)に片足をかけ、海中に身を投じた。

        五、
「あっ」
 艫(とも)で櫓を漕いでいた舟手は大音声(だいおんじょう)と共に上がった水しぶきを眼にし、思わず声を上げた。
「人が、人が落(あ)えたごたっどお」
 舟手が叫んだ。
 それと時を同じくして苫の中で大音声を耳にした坂口が跳び起き、外へ飛び出すや、手にした小刀で白帆の張綱を切った。帆を降ろした船はみるみると減速した。
 坂口と争うかのごとく跳び起きた平野は、西郷と月照の不在を認めるや、舳先へ駆け寄り、海中に向かって手にした板戸を投じた。目印とするためである。
「西郷しゃん、和尚、和尚ぉ」
 平野は漆黒の海に向かい、幾度も叫んだ。
 やや遅れて眼を覚ました重助も舳先に駆け寄り、海に向かって、
「御師僧、御師僧」
 と、泣き声を上げた。
「泣いとる場合じゃなか。灯りば、灯りば。……そいから板きれなら何でんよかけん、海に放り込め、」
 平野は重助を叱り、かつ命じた。
 坂口は艫の舟手へ、船を旋回するよう、大声を上げて命じた。
 重助は苫に駆け込み、火鉢の炭火から火種を行灯に移し、灯りを帯びた行灯を舳先へ運んだ。
 坂口も艫から舳先に移り、海へ向かって、
「西郷どおん、和尚さあ」
 と、幾度も叫んだ。
 平野、坂口、重助三人の、西郷と月照の名を叫ぶ声が海面に空しく響いた。
 
 半時ほど経って平野が、
「あいやなかろか?」
 と、白み出した海面を指さした。そこには人影らしきものがぷかりと海面に浮かび、波間に揺られていた。
「……じゃいよ」
 そう叫ぶや坂口は、舟手に船を近づけるよう大声で命じた。
「ちぇすといけ(気合いを入れろ)。力ん限り、きばって漕げえ」
 坂口は舟手を煽った。
 船がその人影に近づくと、西郷と月照がしっかと抱き合い。波間に揺られているのが三人の眼に映った。
 艫へ駆け寄り、舟手から櫓を奪った平野がその櫓で二入を船に手繰り寄せ、続いて舟手も加わって、西郷と月照の二入を船中に引き上げた。二人はしっかと抱き合い、離れようとしなかったが、坂口は二人を引き離し、濡れた服を剥いで、体を擦(こす)り始めた。
 平野はすぐさま坂口の行いに倣った。
「御師僧、御師僧」
 重助は月照へ泣き崩れた。
 坂口は突っ立ったままの舟手へ、花倉(けくら)の浜へ急行するよう命じた。
 花倉の浜は島津家の磯の別邸(現在の仙厳園)のすぐ北の小部落である。
「ちぇすといけぇ、ちぇすといけぇ」
 坂口の舟手を煽る声が、黎明の錦江湾に谺(こだま)した。

         六、
 花倉の浜へ着くや坂口はすぐさま飛び降り、近くの百姓家に駆け込み、手短に事情を話し、すぐ火を焚くように頼んだ。それから坂口は百姓家から借りた雨戸二枚を浜へ運んだ。
 平野は浜へ降りず、月照の体を懸命に擦っていたが、おもむろに月照の腕を取り、脈を計った。それから平野は月照の瞑目していた瞳孔を開いたが、何の反応もないと知るや重助へ眼を転じ、力なく首を振った。
「御師僧、御師僧」
 重助はまたも月照へ泣き崩れた。
 百姓家から戻り、月照の他界を聞かされた坂口は、
「西郷どんは?」
 と、平野へ問うた。
「西郷しゃんはまだ息があるごたるばい」
 月照に続いて西郷の脈を計っていた平野が力を込めて坂口ヘ語った。
「んだら西郷どんだけでっちゃ……」
 坂口と平野、重助、それに舟手の四人は板戸に西郷を載せ、百姓家へ運んだ。
 西郷の意識は戻らない。その間、平野は百姓家の庭で火を焚き続け、西郷を暖めた。
 坂口は二人の入水と月照の他界を藩に報告するため、夜の明けた錦江湾を鹿児島城下へ向かった。
 坂口は裁許掛の梁瀬源之進へ事の顛末を報告し、驚いた梁瀬はすぐさま藩庁へ急報した。報せを受けた藩庁は国家老新納駿河の命により、西郷と月照の入水を内密に処理しようと、医者と棺桶二樽を同じく坂口の船に載せて花倉の浜へ急行させた。
 浜に着いた坂口は昏睡状態の西郷と月照の遺体を棺桶に入れ、それに平野と重助も乗船させて、鹿児島城下の町会所へ戻った。
 だが藩の思惑に反して、西郷入水の噂が大久保一蔵、有村俊斎ら精忠組の有志に漏れた。精忠組の有志は藩の謀殺ではないかと疑い、町会所に押し掛けた。
 町会所に詰めていた藩吏は精忠組有志の勢いに押され、西郷は生存、月照は死亡と教えた。そして午後になり、西郷の家族を呼び出し、自宅へ引き取らせた。
 家族は駕籠を雇って、上之園の借家まで意識のない西郷を運んだ。
 月照の遺体は西郷家の菩提寺である南林寺へその日の夜、運び込まれた。平野と重助もこれに随行した。

         七、
 西郷は昏々と眠り続けたままである。
 だが往診にあたった医者が手当を施すと、西郷は幾度か水を大量に吐き、囈(うわごと)で月照の名を呼んだ。
 西郷のまわりを大久保、有村の他に吉井幸輔(後の友実)、伊地知竜右衛門(後の正治)、税所喜三左衛門(後の篤)といった精忠組の面々が囲んだ。
 夕刻に至り、ぼんやりと意識を戻した西郷が何事かをもごもごと囁いた。
 家人が耳を近づけると、
「しかぶっ(小便をもらしそうだ)」
 と言う声がかすかに聞き取れたので、吉井らが西郷を担ぎ起こして、縁側へ運んだ。
 床へ戻った西郷は今度ははっきりした声で、
「紙入れを、持って来てくいやっせ」
 と誰に言うでもなく、呟いた。皆は初めて聞く西郷のしっかりした声に喜び、その言に従った。
「こいのこつか?」
 紙入れを持参した吉井が問う。
「開けてたもんせ」
 西郷がまたもぽつりと呟いた。
 吉井がそれを開くと、紙は濡れ、かつ西郷の纏っていた薩摩絣の藍が滲(にじ)んでいたが、伊地知と税所が判読を試みると、何とかその内容が読みとれ、またこの歌は月照が船中で詠んだ歌だと知れたので、居合わせた者は皆、大いに感動を覚えた。
 西郷は再びすやすやと深い眠りに就いた。
 夜になり、もう心配あるまいと考えた大久保は、自分と伊地知だけを不寝番として西郷の看護にあたることにし、他の者は自宅へ退去させた。

 夜が更け、疲れを覚えた大久保と伊地知は西郷の枕許で腕を組み、うつらうつらとしていた。
「一蔵どん、一蔵どん」
 西郷の大久保を呼ぶ声に、大久保ははっと眼を覚ました。
「和尚はいけんなりもした?」
 西郷が大久保へ問う。
 大久保は短い沈黙の後に、
「……やっせんかった(駄目だった)」
 と、西郷へぽつりと答えた、
 西郷は無言のまま、天井を見上げたが、さらに大久保に聞いかけようとはしなかった。
 二人の話し声に眼を覚ました伊地知が西郷の表情を伺った。
 大久保と伊地知の最たる懸念は、西郷が月照の後追い自殺を企てはしまいかという点にあった。
「西郷さぁ、おまんさぁがもし今でっちゃ、やっぱ死にたかったち思うとるなら、……」
 大久保が西郷に向かって語り出した。
「おいに言うてくいやんせ。おいが毒ば用意しもんそ」
 伊地知は大久保の言に驚愕する。
 大久保は伊地知をちらりと見たが、その表情を無視し、語りかける。
「吉之助さぁ、おいが毒ば盛ってやりもんそ、先君順聖院のされたごつ」
「一蔵、おまん……」
 伊地知がたまらず口を開いた。
「一蔵、おまや、ないを知って……?」
 伊地知が声を震わせて大久保へ問う。
 大久保は西郷の性格を知り抜いていただけに、もし月照が死に、西郷が生きていたならば、西郷は月照の後を追うだろう。それを思い留まらせるにはこう言うしかないと、心に決めたことがあった。
「先君はやっぱ毒を盛られたつか?」
 伊地知が大久保へさらに問う。
 伊地知も先君斉彬の急逝には不審を抱き、そんな噂を耳にしたこともあったのだが、確たる証拠も無いのに騒ぎだてする訳にも行かず、もやもやとした思いを抱いていた。それは西郷も同様であった。
 大久保が言葉を選びながら語り出した。
「おいがないごて先君が逝んでまわれた後、せっせと重富(久光の在所)へ通っとるか、そん訳は、……」
「そん訳は?」
 伊地知が大久保の言を促す。
 久光は斉興の側室であるお由羅の実子である。英明の誉れ高い斉彬ではなく、久光を藩主の地位に就けたいと考えたお由羅は斉興を抱き込み、また斉興の祖父である重豪(しげさと)に似て西洋指向の強い(これを蘭癖:らんぺきと蔑称した)斉彬が藩主に就いたならば、調所広郷(ずしょひろさと)の改革により赤字をようやく解消したばかりの藩財政が、再び赤字に転落すると危惧した斉興は、斉彬派の粛清に乗り出した。これをお由羅騒動、または高崎崩れと呼ぶ。
 このお家騒動により大久保の父である利世は喜界島へ流され、また大久保自身も記録所書役助(かきやくたすけ)を罷免され、不遇を囲った。
 ゆえに西郷を始めとする精忠組の面々はお由羅を奸女と呼び、憎悪を募らせていた。それだけに伊地知は、大久保が久光へ接触したいと考える真意を測りかねていた。
 大久保は伊地知へではなく西郷に向かって、その訳を語る。
「……長崎に藩命で赴(い)っとった西洋医の松木弘庵(後の寺島宗則)が帰って来ておいに、殿様ん死は病死じゃなかごたる。もしかしたら毒を盛られたっかもしれんち。もし毒を盛られたっなら、そいば指示できっとはおいは一人しか考えられん。……じゃでえおいは、重富さあ……」
 大久保はその先は言い淀み、口を濁した。
「……あん地五郎(ぢごろ:田舎侍への蔑称)が」
 それまでまったく黙していた西郷が明瞭に怒気を帯びた口調で、吐き捨てた。
 大久保は西郷の眼中に初めて生気が兆したのを認めた。大久保はその西郷の眼(まなこ)に向かって諄々と語りかける。
「よかな、吉之助さぁ。先君順聖院が亡くなられて、だいが悲しんでだいが喜んだか。んで、おまんさぁが死んだら、だいが悲しんでだいが喜ぶか、そいだけを考えっちくいやっせ。……こげえに言うたら何やどん、死んだもんは死んだもんでしょんなか。どげえに悲しんだっちゃ、生き返るこつはあいもはん。……じゃっどん生きとるもんは死んだもんの分まで、死んだもんがしとうても出来んかったこっが出来っるかもしいもはん。じゃでえ、吉之助さぁは死にたかちなんぞこいからはちっとん思わんと、恥を晒してでん生きるこつだけをば、考えちくいやっせ。……こん通り、頼んます」
 大久保は西郷へ向かい、深々と頭を垂れた。
 西郷は大久保の一言一言が心に沁みた。
 かつて斉彬急逝の際に殉死を決意し、その覚悟を月照に見抜かれ、お殿はんの御遺志を継ぐんはあんさんしかいてへんと諫められたこと、そしてまた月照から昨夜、わての分まで生きておくれやすと告げられたことが、月照の面影とともに西郷の脳裏を掠めた。
 西郷の瞼から溢れた一筋の涙が頬を伝った。西郷はそれを二人に覚られまいと、頭から布団を被ったが、たまらず嗚咽を漏らした。

 生気を回復した西郷へ、藩より蟄居が命じられた。また西郷はすでに死去したと幕府へ報じていた藩は西郷に改名を命じた。西郷は菊池源吾という偽名を藩へ届け出た。肥後菊池は西郷の父祖の地である。この名を、菊池を源とする吾と読み下すならば、そこに西郷の薩摩藩に対する失望が伺える。
 さらに蟄居中の西郷は肥後藩の国家老長岡監物に宛てて書状をしたためた。長岡は西郷が帰国途中に立ち寄り、月照の保護について相談した人物である。
 西郷は長岡宛ての書状に、「私事土中の死骨にて、忍ぶべからざる儀を忍び罷(まか)り在り候次第、早御聞き届け下され候わん。天地に恥ケ敷儀に御座候へ共、今更に罷り成りては皇国のため暫く生を貪(むさぼ)り居り候事に御座候。御笑察成し下さるべく候」と記した。
 その一週間後に藩は西郷を、奄美大島へ配流した。

         八、
 時代は激動の幕末から揺籃の明治へと慌ただしく流れ、明治七年(一八七五)十一月十六日、月照の十七回忌が鹿児島南林寺(現在は南州寺と改名)の彼の墓前で営まれた。
 西郷は月照の墓前に次の七言絶句(原漢文)を捧げた。

「亡友月照、十七回忌辰の作」
相い約して淵に投じ後先なし  
豈図らんや波上再生の縁
頭を回らせば十有余年の夢
空しく幽明を隔てて墓前に哭す

 この詩を捧げた三年後の明治十年(一八七八)九月二十四日、西郷は西南の役に敗れ、城山にて自刃した。自刃の直前、西郷は東方を遥拝し、白煙をたなびかせた桜島と、燦々たる陽光に照らされた錦江湾を眼底に焼き付けたのち、別府晋介の振りかざした白刃のもとに己がうなじを差し出した。享年四十九。


2001年九州さが大衆文学賞一次通過作品に一部加筆・原稿用紙換算60枚


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コメント
1:リンク by kazusin on 2009/04/05 at 00:04:25

 メールありがとうございます。
10年以上前に見た
桜島と錦江湾を想い出しました。
それにしても
「錦川」に続くような
マニアっくさが嬉しかったです。
こちらからもリンクしましたので
今後ともよろしく
お願いしますね。

2:一番乗りだよ by 高遠 on 2009/04/05 at 00:25:29 (コメント編集)

kazusin 様

 一番のコメントありがとう。
 この作品は「錦川」より先に書いたんだけど、ワープロで書いたので、ずっと引き出しに眠っていました。スキャナーで読み取ってくれる人がいて、ワードに落とせたので、ここに公開することにしました。
 実はこのブログもほとんどその人に作ってもらいました。
 リンクしてくれて、ありがとう。

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